この時はじめてお銀様は、弁信というものの存在が、自分の生涯の上に不思議の存在であるということを感じたようです。なぜならば、今日まで自分の眼に触れ、耳に聞いているところの人間という人間は、二つの種類しかなかったのです。それは、愛する者と、憎む者の二つしか、お銀様は人間を見ることができませんでした。愛せんとして愛し得ざること故に、すべての人間がみんな憎しみに変ってしまったようなものでありました。
ところが、弁信はどうです。お銀様自身は、弁信を愛しているとは思わない。弁信がいることによって、特に愛着と煩累《はんるい》とを感じたこともないが、弁信がいないことによっても、なんら自分の愛の生命の一片を裂かれたと感じたことはない。そうかといって、彼を憎んでいない証拠には、自分の家へ連れて来て、永らく生活を共にしていながら、ついぞ彼のお喋《しゃべ》りに干渉を試みたこともないし、彼をわずらわしく感じたこともないので知れる。すでに愛してもいないし、また憎んでもいないとすれば、いったいお銀様は今まで、弁信に対してのみ、どんな待遇を与えていたのか。
自分ながらそれが今になってわからなくなっているのです。淡
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