様の頭が故郷の山川に向った折柄、不意に、天来の響がその頭上に下るの思いをしました。
「お嬢様、お嬢様」
 朗かな声で二声まで続いて聞えたのは、わが名を呼ぶもの。
 それは、海のあなたの伊勢の山河から来る声でもなく、後ろから我を追手の呼びかける声でもない、そうかといって西の出崎の松、東、呼続《よびつぎ》、星崎《ほしざき》の海から来る声であろうはずもありません。
 その声はまさに、うららかとも言ってよい、わが頭の青天の上から、妙楽《みょうがく》の如く落ちて来たものであることは、お銀様自身がよく心得ていました。ですから、
「なあに」
と、天を仰いでそれを受けとめなければならないほどの現実性をもって、鼓膜にこたえたものです。
「お嬢様、いったいあなたはどちらへいらっしゃる目的なんでございますか」
 その声がまた言いました。
「わたしは知らない」
 お銀様は、またしても、ついついこうあしらわねばならなくされました。
「おわかりでございますか、わたしは弁信でございますよ、わたくしの声はよくお分りになりましょうと存じますが、今、わたくしがどこにいるかということは、到底、あなたにもおわかりになりますま
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