手紙を逐一《ちくいち》読んでしまった北原賢次は、慨然として、
「だから言わぬ事じゃない」
とつぶやきました。だが、慨然として呟《つぶや》いただけではいられない、事急に迫って、轍鮒《てっぷ》のような境涯に置かれているお雪ちゃんの叫びを聞くと、まず、為さねばならぬことは、走《は》せてこれに赴くということです。
北原は、忙しく手紙を巻きながらこう言いました、
「今晩というわけにもいくまいから、明早朝、拙者は高山まで行って来るよ。まあ、万事は向うへ行っての相談だが、僕の考えでは、どうしても、もう一ぺんお雪ちゃんとその一行をここへ連れ戻すのだな、そうして予定通り一冬をこの地で越させて、春になってからのことにするさ……とにかく、僕は明早朝、お雪ちゃんを救うべく高山まで出張することにしますから、皆さんよろしく」
北原が手紙の要領を話した後に、進んでこういって提言したものですから、誰あって異議を唱えるものもあろうはずはありません。
「御苦労さまだね、北原君、この雪だからねえ、誰か一緒に行ってもらわねばなるまい」
池田良斎が、ねぎらいながら言うと、誰よりも先に口を切ったのは、黒部平の品右衛門爺さんでありました。
「わしも、平湯から船津《ふなつ》へ越さざあならねえから、一緒に高山までおともをしてもいいでがんす」
「品右衛門爺さんが同行してくれれば大丈夫、金《かね》の脇差」
と山の案内者が言いました。
「有難い、品右衛門爺さんが行ってくれる、ではなにぶん頼みますよ」
北原も品右衛門の名をよろこびました。事実、山と谷との権威者である、このお爺さんが同行すれば、山神鬼童も三舎を避けるに違いないと思われます。
そうでなくてさえも、品右衛門爺さんに先を越されて、やむなく口を噤《つぐ》んでいた一座の甲乙が、この時一時に嘴《くちばし》を揃えて、
「北原君……拙者も連れて行ってくれないか、安房峠《あぼうとうげ》の雪はいいだろう、それに飛騨の平湯がまたこことは違った歓楽郷だということだし、高山も山間に珍しい風情のある都会だということだから、この機会に、僕も一つ同行を願って、観光の列に加わりたいものだ」
「冗談じゃない、物見遊山に行くんじゃないぞ、まさにお雪ちゃんの危急存亡の場合なんだ――ところで、品右衛門爺さんを先導且つ監督として、拙者が正使に当り、久助さんだけは当然|介添《かいぞえ》として行かにゃなるまいから、同行三人――それで明早朝の約束ということに決めてしまいましょう、ねえ、池田先生」
「それがよろしいでしょう、御苦労ながら頼みます、頼みます」
北原と良斎とは相顧みてこう言って、もはや緩慢な志願者の介入を許さないことになってしまって、一座もまたこの際、それに黙従の形となって、火は相変らず燃えているのに、一座がなんとなく、しんみりしてきた時、
「え、え、皆様、本来ならばこの際、私が進んで御同行を願わねばならないのですが……」
と、この時膝を進めたのは弁信でありました。
本来、あのお喋《しゃべ》りが、ここのところで、ここまで沈黙していたのは、不思議といえば不思議であります。縁故の遠い甲乙までが、自分の好奇のためにも、お雪ちゃんの救急のためにも、嘴《くちばし》を揃えて同行を申し出でた際、それよりはもっとずっと馴染《なじみ》の深い弁信が、あの柔軟な舌を動かさずにいたということが変で、また、話がこんなに進んで来た場合に、今まで物《もの》の怪《け》ではないかとさえ驚異の的とされていたこの小法師が、たとえ僅かの間なりとも、一座から存在を忘れられていたということも、不思議な呼吸でなければなりません。
ところが、この際突然としてまたしゃべり出たものですから、忘れられていた存在がまた浮き出したと同時に、一座がなんとなく水をかけられたような気持になって、神秘とも、幻怪とも、奇妙とも、ちょっと名のつけられない小坊主の、平々洒々としてまくし立てる弁説の程に、なんとなくおそれを抱かせられでもしたもののようです。こんな気配にはいっこう頓着のない弁信は、一膝進ませて、例の柔長舌をひろげはじめた、
「皆様が、こうもお気を揃えて、あのお雪ちゃんという子のために尽して下さる御親切をまたとなく有難いことに存じます。本当ならば、皆様をお煩《わずら》わせ申すことなしに、真先にこのわたくしというものが、あの子を訪ねて、そうして尽すだけの介抱も尽してあげなければならないはずなのに、今のわたくしでは、それができないと感じましたから、やむを得ずさいぜんから差控えておりました。と申しますのは、甚《はなは》だ我儘《わがまま》の次第でございますが、実のところ、わたくしの身体は只今、疲れ切っているのでございます、それに、ここに落着きまして、結構な天然のお湯に温められましてから、その疲れが一度に出てしま
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