、
「いいえ――」
その返答ぶりだって、近在の山奥から出て来た娘ではない。
「どこだい」
「はい」
お雪ちゃんは返答に窮してしまったが、折よくそこへ来合わせた兵隊が一人、
「もはや、あの農兵の組合せが出来上りまして、いつにても調練の御検閲をお待ち申しております」
「ああ、あの農兵の調練か、この足で出向いて行く、御苦労御苦労」
お雪ちゃんを見ていた新お代官は、この兵隊の復命を聞くと頷《うなず》いて、前へ歩み出しましたが、どうも横目でじろじろとこちらを見ていられるようで気味が悪い。
それでもその場はそれだけで、何のこだわりもなく、市場は以前のような喧噪《けんそう》と雑沓《ざっとう》にかえり、お雪ちゃんは首尾よく手頃のお頭附《かしらつ》きを買って家へ帰りました。
帰ってみると、何にするためか、碁盤を前にして、紙を畳んでは刻み、刻んでは畳んでいるところの竜之助を見ました。
お雪ちゃんはいそいそとして、買い調えたものの料理にかかり、それより適当の時間に、やや早目な晩餐が出来上り、やがて睦《むつ》まじく膳を囲みました。
お祝いが済むと、また緊張しきった気持で新しい仕事にとりかかる心持まで、充実しきっておりました。
しかしお雪ちゃんが立って行くまもなく、例の公設市場に一つの難題が起ったことは、お雪ちゃんの知らない不祥事でした。
それは、お代官から改まって三名ばかり役人が見えて、さいぜん、お代官が検分の砌《みぎ》り、この乾物屋の附近に立っていた在郷らしい女の子はいったいありゃ何者だ、どこの誰だか詮議《せんぎ》をして申し上げろということです。
そこで、市場の上下が総寄合のように額を集めて、あれかこれかと詮議をしてみましたけれども、要領を得たようで得られないのは、本人はたしかに見たが、その在所が一向にわからないことです。小豆を買い、お頭附きを買い、その他、椎茸《しいたけ》、干瓢《かんぴょう》の類を買い込んで行ったことは間違いなくわかりましたけれども、どこの何者かどうしても分らないのです。ただ、言葉つきから言えば、決してこの山里から来た者ではなく、そうかといって、土地の者でも、上方風の者でもないことは明らかだし、その風采や、品格から言えば、なかなか山里や在郷の者ではないが、いでたちは、ざらにあるこの辺の山出しの娘にちがいなかった――ということだけは誰も一致するのですが、さてそれが何者で、どこから来たかということは一向わからない、それに、連れといっては一人も無く、たった一人で来たことも間違いないから、聞き合わせる手がかりもないことです。
その旨をお代官の下役に答えると、下役の御機嫌の悪いこと。
こういう意味で、あいまいに復命すれば、それはきっと隠し立てすることの意味のほかに取られるはずはない、もし身許がわかってお召出しを蒙《こうむ》った日には、及ぼすところの迷惑甚大なところから、身許不明ということにさえしておけば、まずは無事――という算段から出たとお代官に睨《にら》まれるにきまっている。お代官の威勢として、たった一人の山出しの娘が突留められないとあった日には、自分たちの首の問題でもある。そこで下役は自然市場の連中に辛く当らなければならない段取りになる。
「そういうあんぽんたんの行き方で、商売がなるか! 言葉尻をつかまえておいても方角はわかりそうなものだ。貴様たち、心を合せてかくまいだてするなら、その了見でええ、吾々にも了見がある、明朝までにきっと詮議をしてなにぶんの返事をせい」
こういって市場連を威丈高に嚇《おど》し立てたものです。
この嚇しは利《き》きます。今晩は寝ないでも市場の関係人全体は手をわけても、その身許を突きとめない限り市場組合員は所払いとなるか、欠所《けっしょ》となるか、そのことはわかりません。
三十
その夜の――暁方のことです。
最初に宇津木兵馬が触書《ふれがき》を読んだ例の高札場のところ。
歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百という野郎が、芝居気たっぷりで隠形《おんぎょう》の印を結んだ木蔭。
あそこのところへ、また以前と同様な陣笠、打裂羽織《ぶっさきばおり》、御用提灯の一行が、東と西とから出合頭にかち合って、まず煙草を喫《の》みはじめました。
東から五人、西から五人――かなりの仕出しが、舞台の中程、柳の下へずらりと御用提灯を置き並べ、その附近の石と材木とへ一同ほどよく腰を卸して、申し合わせたように煙草をのみ出したことは、この間の晩と今晩とに限ったことではなく、いつもここが臨時非常見廻役の会所になっていて、ここで落合ってから、東の奉行は西へ、西の奉行は東へ、肩代りをして一巡した後にお役目が済んで、おのおのの塒《ねぐら》へ帰る順序ですから
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