全くないことで、それがためにお雪ちゃんは、久助さんのことも、北原君のことも、白骨谷のことも、一切忘れ去るほどに緊張を感じていたことは事実です。
 そうして、翌朝を待っていてみると、果して鶴寿堂がやって来て、お雪ちゃんの仕事の成績を一見するや、舌を捲いて喜び且つ賞《ほ》めあげました。
 それを聞くとお雪ちゃんは、大試験が一番の成績で及第したほどうれしく感じているところへ、この出来栄えでしたら、玄人《くろうと》はだしですから、この後も続々仕事を持ち込みますによって、欠かさずやっていただきます、先日も申し上げた通り、お礼というほどのことはできませんが、今までの例によって、少々のところ、明日改めて持参いたしますから、何分よろしく――と言って、写し物の分を持って帰り、続いての仕事の三冊を置いて帰りました。
 これに一層の元気と自信を得たお雪ちゃん、竜之助に呼ばれても返事を忘れるほど、机にしがみついて離れませんでした。
 その翌日になると、鶴寿堂はあとの仕事を持ち込むと共に、金一封をお雪ちゃんの前に置き、一枚について幾らずつの計算で、これから無限にお引受けを願いたいと言われた時に、お雪ちゃんは胸がわくわくして、いきなりその一封を押戴きたいほど嬉しくなりました。
 鶴寿堂が帰った後、その一封の金包を持って、転がるように竜之助の枕辺に走《は》せつけたお雪ちゃん、
「先生、わたしが稼《かせ》ぎました、生れ落ちてから、今日という今日はじめて、自分の腕でお宝を儲《もう》けることができました。これはそのままじゃおけません、わたしはこれを神棚へ捧げます、そうしてこれから買物に出かけます、小豆《あずき》の御飯を炊いて、お頭附《かしらつ》きでお祝いをしましょう。わたしの稼いだお金で買ってあげなければならない。ですから、忙しいけれども、わたしこれから町へ出てまいりますわ、そうしてこれで小豆とお頭附きと、そのほかに買えるだけのものを買ってまいります。あなたのためにばかりじゃありません、わたしも自分のために、自分のお宝で買いたいものがありますもの」
と言って、お雪ちゃんは竜之助の枕許で喜びました。
「ねえ、先生、おとなしく待っていて下さい、わたしが、わたしの儲けたお金で、あなたを喜ばせるおみやげを買って来てあげますから、ほんの少しの間、おとなしく待っていらっしゃい……」
 お雪は、竜之助に頬ずりをしないばかりにして出て行きました。
 竜之助も、それを拒む由はないが、喜んで出て行ったお雪のあとに、一抹《いちまつ》の淋しいものの漂うのに堪えられない気持がしました。

         二十八

 ちょうどその日、代官の屋敷では新お代官の胡見沢《くるみざわ》が、愛妾のお蘭の方と雪見の宴を催しておりました。
 雪見といっても、雪は降っていないのですが、三日前、チラチラふった雪の日に、一杯飲もうと言ったのが、急の用件で延び延びになったために、今日その雪見の宴を開いて、水いらずに楽しんでいるという次第です。
 そこへ、女中が取次に来ました。
「あの、いつも見えます鶴寿堂が参りました」
と、それは主人公の胡見沢に向っての注進ではなく、お部屋様のお蘭さんの顔色をうかがっての取次でした。
「政吉が来たかい、政吉ならここへお通し」
 お蘭の方は、主人の同意を得ることなしに、独断でこの席への出入りを許したものです。
 まもなく、女に導かれて、廊下伝いにこの席へ現われたのは、相応院のお雪ちゃんをお得意とする貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしくいえば、白骨へイヤなおばさんが同伴して来た浅吉という男とそっくりなあれです。
 番頭は敷居外にうずくまって、額が畳へ埋れるほどにお辞儀をしました。いつも御贔屓《ごひいき》にあずかるお部屋様に対しての敬意ばかりではない、飛騨一国を預るお代官の御列席へ、特に入場を許さるる自分の待遇に恐れ入ったものと見えます。
「何ぞ面白い本が出たかえ」
と、お部屋様のお蘭が聞きました。
「はい、うつし本ではございますが、近ごろ評判の新刊物が出来ましたから、ごらんに入れたいと存じまして持って参りました」
「それは御苦労、ここへ出してごらん」
「はいはい」
 若い番頭は、一層の恐縮をもって風呂敷を解いて、その中から薄葉綴《うすようつづ》りの三冊を取り出して、
「はい、ただいま評判の種彦物でございます、絵の方も豊国でございまして、なかなか出来がよろしうございます、写し本ではございますが、原本の情味がすっかり出ているものでございますから」
と言って、恐る恐るお蘭の方の前へ捧げたのは、赤い色表紙の美しい製本になっていましたが、中身はこの二三日来、お雪ちゃんが丹精をこらして書き上げた「妙々車」であります。
「まあ、ちょっとお見せ」
 女中の手からお蘭はその冊子を取り上げて、中身を
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