ある屈強なのが十人近くもかかってこじれなかったのを、あの無雑作な動かし方はどうだ。ここへ来て与八の力量の一端が認められたのは、この時が初めてでありましたけれども、不幸にして、それは、徒らに驚異と喝采だけで納まる場合ではありませんでした。
こうして、与八の手で無雑作に、三つ四つ左右に揺られた石は、もはや抜き取れたと同様の位置になり、それが抽斗《ひきだし》を抜くように抜き出される瞬間に、グッグッと周囲が鳴り出したのは、最初の事情から見れば、あながち無理とは言えなかったのです。
最初の石の食合せ方が執拗であったところで、それをコジるために、かなり無理をしているところへ、予想外の大力で一度にガタリと埒《らち》があいたものですから、周囲の土石も一層、狼狽《ろうばい》の度が強かったに違いありません。
与八も飛び退きました、立って舌を捲いていた連中も一時に飛び退きましたから、幸いに人間は怪我をしませんでしたけれども、その石の四方の腰がグタグタに砕けると、塚の頭に立たせ給うグロテスクが、すさまじい権幕で、もんどり打って下へ落ちころがってしまったのです。
この場合、人間に怪我のなかったことが何よりとして、一同はホッと息をつきながら崩壊の箇所へ戻って来て見ると、塚の上からまっさかさまに落ちたグロテスクは、与八の手によって抜き出された一枚石の角へ頭の頂天をぶっつけたと見え、その脳天の中央へ一つの穴があいたままで、仰向けにひっくり返されている形相《ぎょうそう》、知らぬ者でも一時は身の毛がよだつほどでしたが、
「まあ、それでもよかった、人間の代りにこれ見ろ、生塚《しょうづか》の婆様が脳天へ怪我をして身代りに立っておくんなさった、まあよかった!」
口々にこう言って胸を撫で下ろしたけれども、何がまあよかった! のだ。
まあよかったの言葉が、この塚の施主から出たならば、それこそ本当にまあよかったのだが! その施主なるものは旅中で不在とはいえ、やがて戻って来なければならない運命の人なのだ。
この人の築いた悪女塚をひっくり返しておいて、まあよかったとホザく百姓ばらを、それで許して置く人であるか、ないか――そのことを知り、その場合を想像した者が、このなかに一人もいなかったことが、幸か不幸かそれは分らないが、知っている者が一人でもいたならば、この態《てい》を見て色を失い、為さん術《すべ》を忘れ、そうしてここにいる総ての奴等が、この石で圧殺されてしまおうとも、グロテスクの頂天へ穴を明けなかった方が、どのくらい幸福であったか知れないということに、身も魂もわななかされてしまったに相違ないが……
ことに、この下手人の筆頭は、何も知らない好人物の他国者、与八であることの、免《まぬか》れんとしても免れられない運命のほどを、この男のために悲しみ、かの旅行中の暴君のために怖れることは想像にも堪えられないはずなのに……
ここの一同は存外平気で、あとはあとのように相当に修理し、肝腎《かんじん》の悪女様は、手っとり早く元の座に直すというわけにはゆかないから、単に起して、土台石の一つへ立てかけて置き、そうして自分たちは、ほぼ理想通りの石が得られたことの満足で、他のすべてを自分から帳消しにしてしまっているほど好人物揃いでした。
二十六
飛騨の高山も、今日はチラチラと雪が降り出しました。
相応院の一間に、お雪ちゃんは炬燵《こたつ》をこしらえ、金屏風《きんびょうぶ》を立て廻して、そこに所在を求めながら、考えるともなしに考えさせられています。
白骨へやった久助さんも、今日あたりはどうしても帰って来なければならないのに、今以て音沙汰がない、まだ二三日はどうにか過せるものの、この二三日が過ぎれば、それこそ本当の絶体絶命だということに思い廻《めぐ》らされなければなりません。
生活問題ということを、今日まで真剣にお雪ちゃんは考えさせられたことはないのです。こうしてお雪ちゃんは、炬燵に屈託しながら、ぼんやりと金屏風をながめていました。
この痩所帯《やせじょたい》に金屏風だけが光っている、これはお寺の什物《じゅうもつ》の一つを貸してくれたもので、緑青《ろくしょう》の濃いので、青竹がすくすくと立っている間に寒椿《かんつばき》が咲いている、年代も相当に古びがついて、絵も落着いた筆である。
この金屏風の金と、竹の緑青と、椿の赤いのを見ていると、屈託したお雪ちゃんの心も落着いてくる。
「お雪ちゃん」
そこへ、屏風の蔭から竜之助が刀を提げて歩いて来ました。
「まあ、先生」
「あんまり静かにしているから、心配になって見に来ました」
と竜之助が言いました。
「いいえ、いい心持で屏風の絵を見ていましたのよ」
「何の絵が描いてあるのです」
「竹に寒椿、ほんとうにこの青い竹が
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