時、群衆の中に起った一種の同情が、捕方の上よりは、むしろ囲みを受けた味鋺《あじま》の子鉄の上に注がれて来たようです。
直接、間接に、名古屋城下がこの一兇賊のために、どのくらいの恐怖と迷惑とを蒙らせられたかわからないのに、こうなってみると、子鉄も憐れなものだ! と、一種の同情心のようなものが湧くのを如何《いかん》ともすることができないようです。
赤銅色《しゃくどういろ》に黒ずんだ面に、額から頬までの大創を浮ばせ、それに、笠を飛ばされて台ばかり紐で結えた面構え。誰も笑う者はないが、自分が一種名状すべからざる皮肉の色をたたえて、ニヤニヤと笑っている。笑っているのではなかろうが、笑っているように見える。
その間に、ジリジリと押す捕方のすべては、いよいよ真蒼になって、髪の元結《もとゆい》が刎《は》ね切れたものさえあるようです。
手に汗を握り、固唾《かたず》を呑んでこの活劇を見物している群衆さえ、今は緊張の極になって、泣き出しそうになっている切羽《せっぱ》に、子鉄の両手が、今まで手をつける余裕さえなかった、例の笠の台だけを結んだ紐のところへかかると共に、
「恐れ入りました、味鋺の子鉄の年貢の納め時でございます、お手向いは致しませぬ、神妙にお縄を頂戴いたします」
早くも笠の台を引っぱずして、後ろに投げ捨てると共に、バッタリと大地にかしこまって、丁寧に両手をついて頭を下げたものです。
この光景が、すべての緊張しきった空気を一時に抜いてしまいました。前面に向った捕方のうち、卒倒したものがあります――観衆は暫くしてみんな一時に声をあげ、なかには声を放って泣く者さえありました。
けれども捕方は、まだ軽々しく近づくことをしませんでした。子鉄ほどの者だから、息の根を止めてかかっても油断はならない――
大地へ両手を突いて、頭を下げた子鉄は、その時に懐中へ手を入れて取り出して、二三間ばかり向うへ投げ出したのが一口《ひとふり》の短刀です。
「因果は争われないものでございます、尼にされた我が子の囮《おとり》で、子鉄がお縄を受けることになったのが運の尽きでございます、今まで子鉄のした悪事という悪事のうち、仏に仕《つか》える尼さんをいじめた、それがいちばん悪うござんした――仏罰でござんす、全く恐れ入りました」
そうして両手を突いた中へ瘢面《はんめん》をつき込んで、下を向いたきりです。
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