代官は妥当にして且つ痛快な処罰法だと自分ながら感心して帰って来たが、今や、自分がちょうどその射たれた農兵と同じ立場に置かれてあるような危険を、どこからともなくひたひたと感ぜしめられてしまいました。
 武器さえあれば、自分とても腕に覚えがないではない、飛びかかって手討にもしてくれるのだが、先方に当りのつかない敵に向って、空手で飛びかかるようなことは、こちらに相応の心得があるだけに、決してできるものではない。さりとて、ここで弱味を見せて、自分が引返しでもして、先方が得たり賢しと逆襲でもして来ようものなら、いったいどうするのだ、白昼、平野の中で、鉄砲玉の一斉射撃の筒を向けられたのと同じ立場ではないか。
 酔いはすっかり冷めたし、新お代官の特別製の太いだんぶくろ[#「だんぶくろ」に傍点]が、こんにゃくのように慄《ふる》え出しました。
 この場合、最も応急の策としては、声をあげて助けを呼ぶのほかはないのだが、その声というものは、いくら張り上げても、この際、茶化されて、いよいよ相手の意地悪い沈黙を要求するよりほかの効果のないことになっている。ならば、もっといっそう大声をあげて、ここの屋敷近くには名にし負う宇津木兵馬もいることだし、黒崎その他の手だれもいることだし、なお本陣の方には幾多の猛者《もさ》が養うてあるのだから、出合え、出合えと呼びさえすれば、お代官自身が手を下すまでもないはずになっているのに――その声が出ない。
「う、う、う」
とお代官は、連続的に一種異様なる唸《うな》り声を立てはじめたものです。
 内なるお蘭さんは、この連続的な一種異様の唸りを聞くと共に、腹をかかえて笑いこけるのを我慢がしきれなかったに相違ない、大将とうとう泡を吹いた。泡を吹いたには違いないが、まだ本式の降参を申し入れたのではない。おれが悪かった、済まなかった、今後は慎しむから、今晩のところは、ひとつかんべんしてやって下さいという口上が出てこそはじめて、開門を差許すべきもので、まだこの辺の程度で折れては、今後の見せしめのためにも悪い……と、お蘭はこんなに考えているに相違ない。
「う、う、う、う」
 連続的の泡吹きが、なおつづく。
 お蘭さんはいよいよお茶を沸かしきれないのを、じっと我慢している。
「う、う、う、う」
 もう一息の辛抱だ、もう一泡お吹きなさい、そうすれば助けて上げます……
「助けてくれ―
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