しまいました。
 その時にまた外の庭で、俄《にわ》かに荒らかな下駄の音がして、濁声《だみごえ》が高く起ります。
「これさ、悪くとっては困るよ、そうやみくもに逃げ出さんでもいい、じっとしておれば為めにならぬようにはせぬものを、そうして一途《いちず》に走り出しては、人前もあるぞ、こちの面をつぶすなよ」
 その濁声は、充分の酒気を帯びているこの邸の主人、すなわち新お代官の胡見沢《くるみざわ》であることは申すまでもない。
 そこで、兵馬にもいちいち合点《がてん》がゆく。あんまり珍しいことではない、先刻もお蘭が言っていた、どこぞで女狩りをして来たその獲物だ、本来、爪にかけた上は退引《のっぴき》はさせないことになっているのが、今晩は少し手違いで、相手に甚だしい拒絶を食って逃げられたのだ、それをまた新お代官が、酔っぱらった足で、大人気なくも追いかけて来たのだ。兵馬は、それが忽《たちま》ち分ってみると、苦々しさがこみ上げて来たが、飛び込んで来た娘は一生懸命で、その戸口をしっかりと内から抑えたままです。つまり、この女の子は、咄嗟《とっさ》の間にはここの枢《くるる》のかげんも知らないものだから、必死にここを抑え、この垣一重の内へは敵を入れまいと努力していることは明らかです。
 そのくらいですから、こちらに兵馬が控えていることには、全く気がついていないようです。
 ところが、果して庭下駄の音はカランコロンとこちらへ廻って来る。濁声はろれつの廻らないほどになり、
「おいおい、そこは道場じゃないか、そんなところには誰もいやせんぞ、夜分は誰もおりゃせん……そこには誰もおらん、いや、こちらにも誰もおらん、おらん、お蘭――」
 かなり酩酊していることは、そのろれつのまわらない言いぶりだけでなく、駒下駄に響くカランコロンの乱調子でもよくわかります。
 しかし、その酔眼でも、この道場近くに相手が逃げ込んだということだけは、どうやら見当がついたものと見えて、ようやく道場へ近づいて来て、その表の大戸の方をしきりに押してみました。
「あきはせん、夜分は稽古なしじゃ、誰もおらんのだ、こんなところへ逃げてはいかん、逃げるに致せ、もっと穏かなところへ逃げるがよい、錠が下りている、あきはせんというのに、おい、あけないか、外からは錠がなくてはあかないが、なかから外《はず》せ、あけないか」
 しきりに大戸をがたがたさせ
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