らたまりません、ホンの軽い一振りで、わっしの身体は胴から二つになってあの壁へやもり[#「やもり」に傍点]のようにへばりついてしまったというみじめな次第――いやどうも危ないものです。そこでこんどは河岸《かし》をかえてお浜さんへ取りつきましたね。いい女でしたね、姦通《まおとこ》をするくらいの女ですから、美しい女ではあるが、どこかきついところがありましたね。それもとどのつまりは『騒々しいねえ』といってお浜さんの手に持った物差でなぐられちまいました。どっちへ廻ってもこのピグミー、いたく器量を下げちまい、その後今晩まで閉門を食ったようなもので、この天井の蜘蛛《くも》の巣の中に、よろしく時節を相待っていたのは、弁信さん、あなたを待っていたようなものですよ。弁信さんならば、二尺二寸五分相州伝、片切刃大切先《かたぎりはおおきっさき》というような業物《わざもの》を閃《ひらめ》かす気づかいはありません。柳眉《りゅうび》をキリキリと釣り上げて、『騒々しいねえ』と嬌瞋《きょうしん》をいただくわけのものでもなし、人間は至極柔和に出来ていらっしゃるに、無類のお話好きとおいでなさる。こうくればピグミーにとっても食物に不足はございません、さあ相手になりましょう、夜っぴてそのお喋《しゃべ》り比べというところを一つ願おうじゃございませんか。それにしても火が無くちゃ景気が悪いです、先のお客様や、弁信さんなんぞは、塙保己《はなわほき》ちゃんの流儀で、目あきは不自由だなんぞと洒落飛《しゃれと》ばしなさるにしても、ピグミーの身になってみますと、これでも物の光というやつが恋しいんですからね、ひとつ火を入れましょう。この多年冷遇され、閑却された行燈に向って、一陽来復の火の色を恵むのも仁ではございませんか――どれ、ひとつ、永らく失業のほくち箱に就職の機会を与えて、カチ、カチ、カチ、カチ」
 それは燧《ひうち》をきった音であるか、ピグミーの軽薄な口拍子であるか知れないが、とにかく行燈に火が入りました。
「さあ、弁信さん、今晩は寝かしませんよ、人の期待に反《そむ》いておいて、自分だけが平和の安眠と、極楽の甘睡とを貪《むさぼ》ろうとしても、それは許されません」
 ピグミーは、小さい胡坐《あぐら》を一つ組んで、両手でもってその向う脛《ずね》と足首のところを抱え込んで、ならず者が居催促に来たような恰好をして、寝入りばなの弁信
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