で、眠い眼をこすりつつ起き上ったあぶれ駕籠屋の若い者。

         三十三

 それから、いくばくもなく、代官屋敷の門前の松の木に引据えられて、縛りつけられたところの貸本屋の若者を見ました。
 手は後ろへあのままで、余れる縄でもってグルグル巻きに松の幹へ結び捨てられているのだが、口には別段に轡《くつわ》をはめられているわけでもないのに、眼はどろりとして、口は唖《おし》の如く、助けを呼ぶの気力さえないようです。
 この分では、夜が明けきって、誰ぞ通りかかりの者の助けを待つことのほか、動きが取れそうもありません。ひょっとすると、舌でも噛《か》み切って事切れているのではないかとも疑われるが、そうでない証拠には、どろりとあいた眼が時々は動いているから、生きていることだけは確かだが、ただこうして夜明けまで置けば凍え死んでしまいはせぬかとのおそれがあるばかりです。
 表に斯様《かよう》な変則門番の出来たことを知るや知らずや、広い屋敷の中の別邸のお部屋を、しどけない寝巻姿で、そうっと抜け出した潰《つぶ》し島田に赤い手がら、こってりしたあだものの粋づくり、どう見てもお屋敷風ではない、がこれは昼の時の姿とは打って変ったお蘭の方の閨《ねや》の装いでした。
 お手水《ちょうず》に行くつもりだろうが、途中で戸惑いをして、お手水場とは全く違った方向の廊下を忍びやかに歩いて行くのは、おかしいことです。寝ぼけて戸惑いするほどの年でもなし、実のところ、お蘭さんは手水に行くふりをして、全くはそうではないのです。これはあけすけに言ってしまった方がわかり易《やす》い、お蘭さんはこうして、客分になっている宇津木兵馬を口説《くど》きに行くのです。口説きに行くというのが穏かでなければ、からかいに行くとでも言いましょう。
 お蘭さんが兵馬に気のあるのは昨日や今日ではない。もっと突きつめて言えば、淫婦というものが持っている先天の血潮が、眼の前に写る年頃のものを、すべて只では置かないという本能がさせるのでしょう。時にここのお代官殿を中に、今の屋敷の近頃の空気そのものが、またお蘭さんの行動に油を注ぐように出来ている。
 案の定――兵馬の客となっている部屋の外、それは先日の晩、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が立ち迷ったと同じところ、そこまで来てお蘭の方は、障子の桟へ手をかけながら、そっと内の寝息をうかがっ
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