やく高くなっても、物の音は、内からも外からも起りません。寺男夫婦はこのごろ、夜の明けないうちに山伐りに出かけてしまうのを例とする。
日が高くなったのに、いつもあけらるべきはずの家の戸があかないのは寂しいものだけれども、その戸の一枚だけがあけられて、他のみんなが閉されたままであることは、むしろ凄いものです。最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱《くつぬぎ》に血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
こうしている間に、ずんずん時が経ち、日がのぼります。矮鶏《ちゃぼ》が夫婦で連れ添うて餌をあさりに来たことのほかには、いよいよ訪《おとな》うものなしで、開け放されたいちいちの戸が、唖《おし》の如く動かないでいるばかりでした。
けれども、ようやく一人の人があって、麓から登って来ました。例によって背に負うた萌黄色《もえぎいろ》の風呂敷包だけを見ても、これぞ毎日の日課としてやって来る鶴寿堂の若い番頭であることは疑いありません。
果して、若い番頭は、えっちら、おっちらとやって来て、
「おや――」
とつぶやきました。あのこまめなお雪ちゃんが、今朝はまだ戸もあけていないということがまず怪訝《けげん》の念を刺激したと見えます。それは尤《もっと》もな怪訝で、廻って見ると怪訝が一種の恐怖に近いものになりましたのは、あけないならあけないでいいが、その一枚だけが確かにあけられてあることを発見したからです。
若い番頭――たしか、新お代官の寵者《おもいもの》お蘭さんの言うところによると、浅吉の弟で政吉といったと覚えている。
政吉はその時に慄《ふる》え上りました。
盗賊? 人殺し?
同時に、まえ言った通り、敷居の溝と沓《くつ》ぬぎのあたり一面に血がこぼれているのではないかと打たれました。
だが、血はこぼれていなかったけれども、縁の下のところと、沓ぬぎとにおびただしい人の足跡がありました。
「あっ!」
と政吉が慄え上って、中を覗《のぞ》き込んだ縁の内側にはお雪ちゃんのさしていた、赤い塗櫛《ぬりぐし》が落ちているのを認めました。
「もし、お雪様、もし……」
辛《かろ》うじて呼んでみたけれども、返事がないのです。ないのがあたりまえで、返事をする者があるくらいなら、戸がポカンと口をあいているはずがないのです。
政吉は恐怖に襲われて、誰か人を呼んでみようとしたけれども、このあた
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