筋にほつれている、凄いほどの美人の年増の奥様といったような魅力があるのではないか。キッと結んだ口もとには、意地の悪い深いおとし穴がある。
 あの強い腕にしっかりと抑えられて、あのおろちのような唇が開いた時、あの黒い髪の毛のほつれが頬にさわる、近く寄るとあの蒼白《あおじろ》い顔の色が蝋《ろう》のように冷たくなっている、けれども、蝋よりも滑らかになっているのに、あの唇からは火のような毒。
 ああ、かわいそうな人――心からいたわってやりたい。こうしているうちにも飛びついて、「ああ、先生、わたしは本当にあなたが好きでした」と、あの冷たい頬に、温い血をのぼらせてあげたい。あたしの姉さんはこの人に殺されたような気がするけれども、でも憎めない。わたしだって殺されてあげたっていいことよ。ほんとうにどうして、この人のために、こんなに尽してあげなければならないのか、わたしはこうしてうかうかと、一生を誤ってしまっているのではあるまいか、それも誰のためだと思います。
 ほんとうに、先生、これからのわたしを、どうして下さるの……
 お雪ちゃんは、竜之助の面を見ているうちに、何ともいえない物狂おしい心持でからだのうちがわき立ってきました。
 その時に、外で、
「こんにちは……」
 おとなしやかにおとなう人の声。
「どなた」
 お雪ちゃんはまだ蒲団《ふとん》を離れないで返事をします。
「鶴寿堂でございます、貸本屋でございます」
「貸本屋さん――」
 お雪は立ち上りました。
 立って障子をあけた時分には、貸本屋の番頭、一目見たところで、それはイヤなおばさんの男妾《おとこめかけ》として知られた浅吉さんの生れかわりではないか――誰も驚かされるほどよく似た若い番頭風の男、萌黄色《もえぎいろ》の箱風呂敷を手に提げて、もう縁を上って、座敷へ廻ってしまいました。ぜひなくお雪ちゃんは、
「こっちへおいでなさいまし」
「はい、御免下さいまし」
「雪になりましたね」
「はい、たいしたことはございますまい」
「鶴寿堂さん、この間の義士伝はたいそう面白うございました」
「お気に召しまして有難う存じます、今日はまた新しいのを持って参りましたから、御贔屓《ごひいき》をお願いいたしとうございます」
と言って、もう番頭は包みを解きかける。お雪ちゃんは炬燵のところへ戻って、その間には金屏風がさし出ているから、番頭はその外に、竜之
前へ 次へ
全217ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング