いのを認めっぱなしで年月もところも入れてない。
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失恋ノ悩ミニ堪ヘ兼ネテ今月今日此ノ処ニ来レリ
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と、若い男の筆で書いてある。
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来てみればさほどでもなし大菩薩
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とぶっつけたのもある。
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我慢大天狗
邪慢大天狗
打倒大天狗
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と走らせたのもある。
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借金スルノハツライモノ
鍋釜マデモミンナ取ラレテ
スツテンテン
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と、途方もない自暴《やけ》を飛ばしたのもある。そうかと見れば、また一方にやさしい女文字、
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「三寸の筆に本来の数寄を尽して人に尊まれ、身にきらを飾り、上も無き職業かなと思ひし愚さよ――我も昔は思はざりしこのあさましき文学者、家に帰りし時は、餅も共に来《きた》りぬ、酒も来りぬ、醤油も一樽来りぬ、払ひは出来たり、和風家の内に吹くことさてもはかなき――」
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何の意味とも知れないが、その筆つき優にやさしく、前の大吉、あやめの二人名の女文字になんとなく通うものがありとすればありと見られ、その筆のあとに血が滲《にじ》んでいると見れば見られてたまらない。
転じて、西に向いた方を見ると、
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「最モ美シイ芸術ホド、自分ノ最モ悪イコトヲ自覚シテヰル人間ノ作ニ成ルモノデアル」
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と焼筆で走らせたものもある。その次には、
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大魚上化為竜 上不得獣額流血水為舟
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これも与八にはちんぷんかん。
更に一方の上壇、白檀張《びゃくだんば》りの床の間とも見える板の表には、
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平等大慧音声法門
八風之中大須弥山
五濁之世大明法炬
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いともおごそかに筆が揮《ふる》われているのを見る。
二十四
かくて、七里村恵林寺へ着いた与八。折よく慢心和尚は在庵で、与八を見て悦ぶこと一方《ひとかた》ならず、ここにまた当分の足を留める与八。
昼は、与八は寺男のする寺の内外の雑役の一切を手伝った上に、寺所有の山へも、畑へも行く。随所に郁太郎を連れて行って、しかるべきところへひとり遊びをさせて置くが、郁太郎は極めてお
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