、鹿島だけで帰るということだから、もう帰っていなければならないのに、杳《よう》としてその便りが無いのは、心配といえば心配だが、あの先生のことだから、途中、何か遊意|勃々《ぼつぼつ》として湧くものがあって道をかえたのか、そうでなければ、会心の写生に熱中して帰ることを忘れているのだろう――
とにかく、自分としては、このまま船を行方《ゆくえ》も知らぬ外洋へ向けて出発せしめんとするのではなく、ひとまず陸前の石巻《いしのまき》へ回航させて、かの地を第二の根拠として、なお修復と改良を加えてからのことだから、仮に先発してみたところで、石巻へ同志を呼び集めるのは至難のことではない。
そう思い立つと、駒井は一日も早く出帆するに越したことはないという気分に迫られ、乗組一同もまた、喜んで出帆の一日も早からんことをせがんでいるくらいです。それと一方、毎日毎日、番所や造船所を三々五々としてうろつくならず[#「ならず」に傍点]者や、土地の住民らの目つき、風つきの険しくなるのとに迫られ、天候も見定めたし、そこで駒井も、いよいよ明早朝に出帆のことを一同に申し渡し、そうして今晩はこの番所で、立退きの記念の意味での晩餐会を開くことになりました。
そこで、今晩の晩餐の席は甚《はなは》だ賑やかで、楽しいものでありました。料理主任の金椎は一世一代の腕を振うところへ、マドロスが船房仕込みの西洋味を加えようと力《りき》んでいる。
お松ともゆる[#「もゆる」に傍点]女とは、それぞれたしなみの身じまいをして席の斡旋役に廻るし、乳母は登を椅子に安定させて置いて、自分は給仕に奔走する。
清澄の茂太郎は、登に対して兄さん気取りで子守役に当り、やたらに得意の出鱈目《でたらめ》をうたって聞かせる。七兵衛はその間に立廻っての肝煎役《きもいりやく》――それから駒井を真中に、一同が食卓についてからその賑やかさというものは、今宵限り立って行く名残《なご》りのことも、明日は海を渡って見知らぬ遠方に行くという念慮も、すっかり忘れてしまって、石女《うまずめ》も舞い、木人も歌い、水入らずの極楽天地であります。
こうして、すべてが泰平の和楽に我を忘れて興じ合っているのを見て、当然これに捲き込まれた七兵衛が、急になんだか物悲しくなってたまらなくなりました。この老幼男女が打群れて、興がようやく乗ってきた時に、七兵衛の頭の中にポカリと穴
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