込みを如何《いかん》ともすることができないらしい。
 ばかにしてやがら!
 いったい、ここをどこだと心得てるんだよ、瘠《や》せても枯れても尾州徳川の城下なんだぜ――
 おいらも、この隣りの伊勢の国に生れたから、尾州城下の威勢なんぞは子供のうちから聞いて知ってらあ――
 第一、ここには柳生様がいらあ――
 尾州の柳生様は、江戸の本家の柳生様より術の方では上で、本家の柳生様にねえところの秘法が、この尾州の柳生様に伝わっているということだ、だから剣法にかけちゃあ日本一と言ったところで、まあ文句はつかねえわけだが、その柳生様がおいでなさる尾張名古屋のお城の下で、どこの馬の骨だかわからねえ安直野郎が日本総本家たあ、どうしたもんだ。
 それからお前、宮本武蔵がここへ来て、柳生兵庫と相並んで円明流をひろめているんだぜ――
 それからまたお前、知ってるだろう、弓にかけちゃ、この名古屋が竹林派の本場で、天下第一だろうじゃねえか。知らなけりゃ、言って聞かせてやろうか。
 三家三勇士の講釈でも聞いてるだろう、星野勘左衛門が京都の三十三間堂で、寛文の二年に一万二十五本の総矢数《そうやかず》のうち、六千六百六十六本の通し矢を取って天下第一の名を取ったが、それでも足りねえと、同じ年の九年三月に、今度は一万五百四十二本の矢のうちから八千本の通し矢を取って、二度ともに天下一の額をあげたもんだ。
 江戸の三十三間堂にも九千百五十本のうち、五千三百六十本の通し矢を取って江戸一の名を挙げたのは、やっぱり名古屋の杉立正俊という先生なんだ。
 馬術にかけては細野一雲という名人があり、槍にかけちゃ近藤元高は、やっぱりその時代の天下一を呼ばわれたもんだ。
 鉄砲では御流儀というと、稲富流があるし、軍学には信玄流、謙信流、長沼流――このほかにまだ大した名人が古今にうようよしている。棒にかけても尾張が独得で、近頃では高葉流の近藤さんなんぞも、そうあちらにもこちらにも転がっている代物《しろもの》じゃあねえぞ。
 よし、よそならとにかく、この尾張名古屋へ来て、いくら大道折助で、識者は相手にしねえとはいえ、この看板は、フザケ過ぎてらあ――ここに米友の素質が爆発して、肩にしていた杖槍の手がワナワナと震え出しました。
 よし! 明日はここへねじ込んで、安直と、金茶金十郎なるものの面《つら》の皮を剥いでやらあ、そうするのが名古
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