きない、絵を見せて、そうして会得させるよりほかはないが、たとえば、京都の知積院《ちしゃくいん》の草花の屏風《びょうぶ》を見て見給え、あの萱《かや》の幹と、野菊の葉を見て見給え、飛雲閣の柳の幹と枝のいかに悠大にして自然なるかを見て見給え、西教寺の柿と柚《ゆず》の二大君子の面影《おもかげ》に接して、襟を正さないものがあるか、三宝院の鵜《う》は一つ一つが生きていますよ。いきていると言ったって君、いきているように巧く描けているという意味じゃありませんぜ。大覚寺の松は舞っている、大安寺の藤は遊んでいる、永納の証ある『鷹』は見ましたけれど、毛利家にあるという『唐獅子《からじし》』を見る機会を得ないのが残念です。われわれが、無位無官の田舎絵師としての伝手《つて》で、見られるだけは見たが、どこから見ても永徳に隙間《すきま》はありません、大にしてよく、細にしてよく、山水がよく、花鳥がよく、人物がよく、濃絵《だみえ》がよく、淡彩がよく、点がよく、劃がよい――ことにその線の勁健《けいけん》にして、和順なる味といったら、本当の精進料理を噛《か》みしめる味で、狩野家の嫡流として鍛えこんだ腕でなければ、あの線は出
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