曝し物というものは、見せるために据えつけて置くのだから、いくら見据えたところで、文句の起るはずはないが、主膳がこうして痛快な気分で、「見られたざまじゃねえや」――巻舌をしながら見据えているのは、その気が知れないことです。
主膳としては、こいつらが、覿面《てきめん》の仕置を蒙《こうむ》って、見せしめになっていることに向って、官辺と市民の制裁が至当であることを、世道人心のために我が意を得たりとして、見ているわけではありますまい。といって、気の毒なものだ、さして腹のある奴等でもないのに、山師に操られて、心ならずも深入りしたために、仮りにも出家僧形の身を、こうして万人の前に曝し物にされている、ともかくも、何とかしてとりなしてみてやりたい……というような臆測の気分で見ているはずもない。
だが、見られたザマじゃあねえや……という呟《つぶや》きの下には、たしかにイイ気味だ、どうだい、そうして曝し場の道に坐っている坐り心地は、どんなものだい……といったような意地悪い色が、眼の中にかがやいている。つまり、神尾主膳は、痛快な残忍性をそそりながら、その曝され物が、ことに多少は自分の身に近いところから出
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