で見詰めてやりたくなる癖がある。
 生かすこと、殺すことのほかには、竜之助の天地は無いのだ。
 たとえば、現在はどうあろうとも、運命がこの二つに過ぎないことは、見え過ぎるほど見えている。愛着がしばしの戯れと思われて、彼は何人の捧ぐる好意にも、感謝というものを持つことができない。
 それでも、お雪ちゃんその人には、感謝はできないながら、悪意を持つことまではできないで、そうしておのずからその残虐なる遊戯性が、この子の前では、萌《きざ》して来ないことを不思議と言えるでしょう。
 いかなる女をも、最後は、必ず自分が手にかけて殺してしまう――こういう自覚せざるの自信に充ちている竜之助も、まだお雪ちゃんを殺そうとはしていないらしい。結局はそこへ行かねばならないことを怖れているのは、弁信法師ひとりで、お雪ちゃん自身も、一向それに気のついている様子はない。
 弁信に対しては、竜之助は、ほとんど無関心でいることのできる、これも一つの不思議な存在でありました。
 神尾主膳は、弁信の存在を、この世のなにものよりも憎み、嫌い、憤り、その名を聞いてさえも、渾身《こんしん》の憎悪に震え上り、ひとたびその声を聞き、その姿を見た時は、打ち殺し、打ちひしぎ、裂き砕いて、この世での存在はもとより、想像をさえも掻《か》き消したがるほどの関心を持っているのに、竜之助は、あのおしゃべり坊主に対しては、水の如き執着をしか持っておりません。
 甲州の月見寺で、むらむらと彼を斬りたくなり、その身代りに卒塔婆《そとば》を斬った途端に、その執着が水の如く、身内を流れ去って以来、彼の存在を、あまり気にしているということを知りません。
 そのほか、考えてみれば、自分は、自分に降りかかって来る者のほかには、不思議に執着を持たない身であることを感ぜずにはおられません。むらむらと自分の身に湧き出す、如何《いかん》ともすべからざる力に、ふと外物がひっかかった時が最後――そのほかには、自分は憎むべくして憎むべき人を知らない、殺すべくして殺すべき人を知らない。
 こんなことを、うつらうつらと考えている時に、外で声がしました、
「先生、喜んで下さい、久助さんがいましたよ、見つかりましたよ」
 さも嬉しそうな呼び声、焼跡へ出かけて行ったお雪ちゃんが帰って来たのです。
 その、たまらぬほど嬉しそうな声によって見ると、お雪ちゃんは、久助を焼
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