たのだ、しかもその養子の氷人《なこうど》が、やっぱり天下第一の秀吉の直接の口利きであっただけに、養子ではあったが、不肖の子ではなかった。永徳を知れば当然、山楽を知らなければならぬ、永徳の絵にも、山楽の絵にも、落款《らっかん》というものは極めて少ないから、いずれをいずれと、玄人《くろうと》でも判断のつきかねることがあるが、よく見れば必ず、永徳は永徳であり、山楽は山楽でなければならないはずのものだ――永徳は早死《はやじに》をしたが、山楽は長生《ながいき》をした、およそ長生すれば恥多しということを、沁々《しみじみ》と体験したもの山楽の如きはあるまい。山楽がちょうど四十歳前後の時に不世出の英雄であり、自分を絵に導いてくれた唯一の知己恩人である秀吉に死なれて、その豪華一朝に崩れて、関東に傾くの壮大なる悲劇を、まざまざと見せられた山楽、家康がしばしば招いたけれども行かない、ついにその不興を買い、身辺の危険をまでも感じて、やむなく家康にお目にかかりに罷《まか》り出でたことは出でたが、もとより家康は秀吉ではない、英雄ではあるけれども英雄の質が違う、例の『画史』に――恩赦ヲ蒙ツテ東照大神君ヲ駿城ニ拝シテ洛陽ニ帰休ス――とあるのが笑わせる。何が恩赦だ、何が大神君を拝するのだ、家康には、永徳や、山楽は柄にない、家康という男は、惺窩《せいか》や、羅山を相手にしていればいい男なのだ。白眼に家康を見て帰った晩年の山楽が、池田新太郎少将のこしらえた京都妙心寺の塔頭《たっちゅう》天球院のために、精力を傾注しているのは面白いじゃないか。京都へおいでたら、智積院《ちしゃくいん》、大安寺、その他の永徳を見て、天球院の山楽を見ることを忘れてはなりませんよ――拙者が、これから行って見ようとする松島の観瀾亭というのは、伊達政宗が、桃山城のうちの一廓を、そのまま秀吉から貰いうけて建設したのだということで、その一棟全体が絵になっているそうだ。そのいずれにも落款は無いが、山楽ということに専《もっぱ》ら伝えられている。山楽でなければ永徳――永徳でなければ山楽――よりほかへは持って行き場がなかろうけれど、遊於舎《ゆうおしゃ》の主人なども一見して、自分は永徳と信じたい――と語った。関東には永徳なんぞは無いものと信じていた拙者が、偶然、東北の一隅にその声を聞いてはじっとしていられない。一人の画工のために、一枚の絵のために、
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