る力があるものでございますから……と申しますのは、かねて、わたくしの知合いの一人のお友達がございまして、その方が、わたくしに向って、絶えず呼びかけておいでになります、弁信さん、一刻も早くこの白骨谷へ来て下さい――と言って、絶えず呼びかけて下さるその力が、わたくしをとうとうここまで引き寄せてしまいました」
百
「その力に引き寄せられて、わたくしは、知らず識《し》らずこの山の中に分け入りまして、ついに大野ヶ原の雪に立迷うてしまったという次第でございます。それは、向う見ずとお叱りを受けるかも知れませんが、いずれ、旅という旅で、向う見ずの旅でないものが一つとしてございましょうか。人間の一生そのものを旅といたしますると、出ずる息は入る息を待たぬ、とか申します、今日のことがあって、明日のことを誰が知りましょう。なあに、あなた、わたくしの心得違いは心得ちがいに相違ございませんけれども、玄奘三蔵渡天《げんじょうさんぞうとてん》の苦しみに比ぶれば、これは日本国のうちの、僅かに信濃の国のこと――」
この辺に来ると一座が、ようやくこのお喋《しゃべ》り坊主が、容易ならぬお喋り坊主であることに、ややおそれをなした様子でありました。これにのべつ喋らせたら、たまらないのではないのかとさえ、おそれ出したものもあったようですが、さりとて、それを抑止すべききっかけ[#「きっかけ」に傍点]もないままでいると、弁信はいっこう透《すか》さず、
「なんに致しましても、わたくしがあの雪の大野ヶ原の中に立ちすくんでおりました時に、ふと、わたくしの耳許《みみもと》で私語《ささや》く声がいたしました。それは人間の声であろうはずがございませんが、人間同様のなつかしさを伝えてくれる、小鳥の声でありました……」
と言って、弁信が小首を傾けたのは、その話題にのぼった場合の小鳥の声を、再び耳にしたからではありません――そこで暫くお喋りの糸をたるめていたが、全く調子をかえて、
「外へ、どなたかおいでになっています」
「何ですか」
「今、あちらの方の山を越えて、この宿へ参った方がございます、その方が、戸外《そと》で御案内を乞うておりますよ」
「そんなはずはないよ」
と言っている途端に、表の戸をドンドンと叩く音がしました。
音がして、はじめて炉辺の一同がそれを合点《がてん》したので、弁信のは、それより以前、
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