いて断わって帰してしまった時分に、どこからともなく旅姿の七兵衛が現われて来ました。
 ここにまた不思議なことの一つは、いつも七兵衛の苦手であったムク犬が、最初から神妙に一行について来たが、今ここで不意に七兵衛が姿を現わしても、吠《ほ》えかかることをしませんでした。
 温容に七兵衛の面《おもて》を笠の下から見ただけで、その後は眠るが如くおとなしくなっていることです。このことは、ほかの人にとっては、気のつかないことでしたが、七兵衛にとっては一時《いっとき》、力抜けのするほど案外のことでありました。
 ムク犬が吠えない代りに、ちょうどこの前後に、駕籠の中の郁太郎が不安の叫びを立てたものです。
「与八さん、与八さん、与八さんはいないのかい、与八さん」
 いまさら思い出したように、与八の名を呼びかけ、数え年四つになった郁太郎が、突き出されたように駕籠の外へ出てしまいました。そうして前後の人を見渡したけれども、ついに自分の叫びかけている人の姿が、どこにも見えないことを知ると、
「与八さん、与八さん」
 覚束《おぼつか》ない足どりで、西に向って――つまり、自分たちが立ち出て来た方へ向って走りはじめます。
「郁太郎様、どこへいらっしゃる」
 登を抱いていた乳母《ばあや》がかけつけました。それを振りもぎって走る郁太郎。馬上にいたお松も、馬から下りないわけにはゆきませんでした。
「郁太郎様――与八さんはあとから来ますよ」
「あとからではいけない」
 お松のなだめてとめるのさえも、肯《き》かないこの時の郁太郎の挙動は、たしかに、平常と違っていることを認めます。
「与八さんは、あとから草鞋《わらじ》をどっさり、拵《こしら》えて持って来ますよ、だから、わたしたちは一足先へ出かけているのです」
「いや、いや、与八さんと一緒でなくては行かない」
「そんな、やんちゃを言うものではありません」
「いや、いや、与八さんと一緒でなくては……」
 この時の郁太郎は、激流を抜手を切って溯《さかのぼ》るような勢いで、誰がなんと言ってもかまわず、その遮《さえぎ》る手を振り払って、西へ向って、もと来た方へ一人で馳《は》せ戻ろうと、あがいているのです。
 お松でさえも、手に負えないでいるところを見兼ねた七兵衛が、
「与八さんは、あとから来るから、みんなで一足先へ行っているのだよ」
と言って、あがく郁太郎を、上からグ
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