のねえ子供や、なじみになった皆さんに別れたり、それがどんなに辛いかを思い出すと、あれを思い立ってから、毎晩、涙が流れて枕が濡れちまったが――なんでも罪ほろぼしのためには、辛い思いをしなけりゃならねえ、お釈迦様は王宮をひとりで逃げ出してしまった、西行法師は妻子を蹴飛ばして出かけた、人情を一ぺん通りたち切ってみなけりゃ、仏の恩がわからねえ……こんなことをお説教で聞かされたもんだから、わしゃどうしても一度、罪ほろぼしのために、廻国の難儀をしてみなけりゃ済まされねえ……こう覚悟をきめてしまっていただね」
 お松はたまり兼ねて、その時言いました、
「与八さん、お前は、何をそれほどまでにして、罪ほろぼしをしなけりゃならないほどの罪をつくったの?」

         七十四

 お松が力を尽し、言葉を極めての説得も、ついに与八の志を翻すことができませんでした。
 それでも、お松の方もまた、与八ひとりのために、この幸福と、必然とを取逃がすわけにはゆかない人間以上の引力を、如何《いかん》ともすることができません。
 そこで、おたがいに泣きの涙で、おたがいの導かるる方、志す方に向わねばならない羽目となったのは、予想外中の予想外で、そうして、なにもそれをしなければ、直接の生命に関するというわけではないにかかわらず、そうさせられて行く力の前に、二人が如何とも争うことができなかったのです。
 翌日から、泣き泣きすべての出発の用意と、あとを整理することとに、働きづめであります。
 あとを濁さないように――というお松の日頃の心がけは、この際に最もよく現われ、いつも蔭日向《かげひなた》のない与八の心情もまた、こういう際によくうつります。
 持ち行くべきものは持ち行くように、あとに残して、蔵《しま》うべきものは蔵うようにしているうち、お松が一つの葛籠《つづら》の中から、一包みの品を見出して、与八に渡しました。
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「与八かたみのこと」
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と紙包のおもてに記してある。しかもそれは、先代弾正の筆に紛れもない。与八も奇異なる思いをしながら、それをほどいて見ると、守り袋が一つと、涎掛《よだれかけ》が一枚ありました。その守り袋を開いて見ると臍《へそ》の緒《お》です。紙包の表に書いてある文字を、お松が早くも読んでみると、
「与八さん――これは、お前さんの臍の緒ですよ
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