利を一本空にして、悠々とお茶漬を食べている。
 もし、舟の中のあのおじさんが、このおじさんでないとしたならば、ここにいるこのおじさんは誰だ?
 マドロス君と言い、この七兵衛と称するおじさんと言い、今日は実に、解しきれない変幻出没――さすがの茂太郎が当惑しきって、
「おじさん、いつここへ戻って来たの」
「たった今……」
「だって、お茶漬を食べているじゃないか」
「お腹がすいたから、いただいたのさ」
「だって……」
 この時、屋外が騒がしくなりました。

         八

 そっと窓を押して、二人が外を見ると、すぐ眼の下なる浜辺は、白昼の如くかがやいているのを認めました。
 それは、地上では盛んに焚火《たきび》をして、上には高張提灯を掲げ、何十人もの村民が、竹槍、蓆旗《むしろばた》の勢いで、そこに群がり、しきりに言い罵《ののし》って、この番所を睨《にら》み合っているのを見ます。
 さすがに、ひたひたと押寄せては来ないが、この番所に向っての示威運動であることは確かであります。
 そのうちに、大きな藁人形《わらにんぎょう》が二つ、群集の中に、こちらへ向けて、高く押立てられました。さながら弥次郎兵衛のように竹の大串にさして、突立てたのを、下に薪を積みはじめたところを見ると、この藁人形に火焙《ひあぶ》りの刑を施さんとするものらしい。
 その挙動によって察すると、彼等はマドロスを捕えて焼き殺すことに、何か失敗があったその腹癒《はらい》せか、そうでなければ、首尾よくマドロスに私刑を加え終って後、こうして駒井の番所近く、第二の示威として藁人形を焼き立てようとするものらしい。
 二人で、じっと見ていると、彼等は皆相当に昂奮しきっているようです。その昂奮に油をそそぐように、立廻っているのは、幾多のバクチ打と、ならず[#「ならず」に傍点]者の類《たぐい》と見える。
 やがて、藁人形の下に積み重ねた薪に火をつけると、火は勢いよく燃え上る。それと同時に、ドッと喚声が湧き上りました。
 この騒ぎでは多分、駒井甚三郎も目をさましたでしょう。兵部の娘のベッドの枕も、動かされたに相違ない。
 こちらの番所の中の人は、挙げてみんな、窓越しに、じっとこれを眺めているに相違ない。そこが、群集のつけめで、第一の藁人形にこうして火をつけると、第二の藁人形に火をつけて置いて、以前にも増した喚声を上げる。
 
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