…」
「その通り、違いありません」
「それが、どうしてこんなところへやって来たのだ」
「どうしてって、あなた」
「お前は、江戸へ帰りたいと言っていたはずだ」
「それが間違って、飛騨の高山へ来てしまいましたのよ、悪いおさむらいに騙《だま》されて、さんざんからかわれた揚句に、この高山へ納められてしまいました」
「その悪いおさむらいというのは、仏頂寺と、丸山だろう」
「何とおっしゃるか存じませんが、あの二人のお方が、江戸へ連れて行ってやるとおっしゃったのに騙されて、この高山へ来てしまいました」
「そんなことだろうと思ったから、急にあとを追いかけてみたのだが」
「そんなこととは、どんなこと?」
「お前は、わしがわからないな」
「まあ、どなたでいらっしゃいましたか、お見それ申しました、お面《かお》を見せて頂戴な」
 この時分には、ズブ酔いが多少|醒《さ》め加減になっていたと見え、
「ねえ、あなた、あなたの御親切は死んでも忘れませんよ、お面を見せて頂戴な」
 女の方から、もたれかかるように来たのは、相手が怖るべき助平野郎でなく、多少ともに、自分を親切に介抱してくれる人だとの意識が明瞭になったからでしょう。兵馬の首に抱きついて、自分の面をそこへ持って行って、充分に甘ったれるようにシナをしながら、トロリとした酔眼をみはって、そうして兵馬の面を見定めようとする努力を試みている。
「しっかりしろ」
「しっかりしていますとも。まあ、あなたまだお若い方なのね」
「しっかりしろ」
「頼もしいわね、おや、まだ前髪立ちなのね、お若いのもいいけれど、子供じゃつまりませんわ、早く元服して頂戴な」
「いいかげんにしろ」
 兵馬は、女の背中を一つ打ちのめすと――そんなに強くではなく――女は、
「まあ、痛いこと」
 仰々しく言ったが、この時、酔いは著しく引いたと見え、腰をまとめながら起き上り、
「まあ――失礼いたしました、ここはどこでございましょう、あなた様は見たようなお方……いつ、わたしはこんなところへ……まあ」

         六十五

 正気がついてくると、グングン回復するらしい。
 回復してくると、左様な商売人とはいえ、やっぱり、女の羞恥心《しゅうちしん》というものが一番先に目覚めてくるらしい。自分の膝や、裾《すそ》の乱れたのが急にとりつくろわれて、そうして次には、こんな醜態を演じていた自分と
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