いか。
 そうしてまた一方、舳《みよし》の方に、もう一人いる。それとても別人ではない、昨今、遠方からここへお客に来ている七兵衛というおじさんではないか。
 さしもの茂太郎が、そこで途方に暮れてしまいました。
 あの天神山で焼き殺されているマドロス君がマドロス君であるならば、今、ここを小舟で通り過ぎているマドロス君がマドロス君であり得るはずがない!
 どうしたのだろう?
 そこで思い乱れた茂太郎は、前後の思慮もなく、大声をあげてしまいました、
「マドロスさあーん」
 舟の櫓拍子は相変らず聞えるけれども、返事はありません。
 では、あの過ぎ行く舟の中の人はマドロスさんではないのか――いや、たしかに、あれがマドロス君でなければ、ほかにマドロス君があろうはずはない。
 もしかして、自分の眼に誤りがあったのかと、ちょっと眼をそらして天の方を見ると、いつも見るカシオペヤも、オリオンも、月光に薄れながらはっきりと見える。海の波も、陸の色も変りはない。ひとり、この眼でマドロス君だけを見誤るはずがない。そこで、茂太郎は二度《ふたたび》、大きな声で呼んでみました、
「そこへ行くのはマドロスさんじゃないかエ、マドロスさん!」
 けれども、いっこう手答えがなく、舟はそのままグングンと力限りに漕《こ》がれて行ってしまう。しかし、漕がれて行く先は、遠く外洋へ出でようというのではない、近く岸に沿うて、そうして、遠見の番所、造船所の下の方へと、筋を引いて行ってしまうのです。

         七

 唖然《あぜん》として、岩角に隠れた舟を見送っていた茂太郎が、またも思い返して天神森の方を見ると、さきほどの火は大分に薄れてゆきましたが、この時、ちょうど、蜘蛛《くも》の子を散らしたように、柿の実をバラ蒔《ま》いたように、その真黒な天神森から、点々として、多くの火影が飛び出したのを認めました。
 提灯《ちょうちん》か、松明《たいまつ》か知らないが、おのおの小さな火の子を手にして、多くの人数が、崩れ出したことはたしかです。
 そうして、見ているうちに、右の火の子が、四方へ散り乱れたけれども、やがてそれがほぼ一つになって、長蛇のような形で、こちらへ向いて来ることもたしかです。
 茂太郎は、今それを怖れ出しました。
 とにかく、一目散に、番所まで逃げ込むことが急務だと考えたものですから、また、息せき切って砂
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