が、仮りの二夜の宿となった屋形船のもや[#「もや」に傍点]っていたところ。なるほど、船もあの通り見えている。
筆を半ばにして、お雪ちゃんはその活きた地図に線を引いていたが、昨日までもや[#「もや」に傍点]っていた屋形船のところに至って、はっ! と胸が早鐘をつくように鳴り出したのは、それと多くも隔たらないところの、川原の中の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中から、今しも盛んに火が燃え出したところです。
またしても火事! と災難の再来に狼狽《ろうばい》したのではありません。その火と、火事の火とはおのずから性質の違うこともわかっているし、またあんなに、川原の中で火事を起すはずもなし、起したからとて、前回のような危険をもたらすおそれはないが、その火の手の揚った地点から、今まで忘れるともなく、忘れていたような浅ましい光景が、むらむらと、あの火の煙よりも濃く、お雪ちゃんの頭に湧き上ったからです。
あんな怖ろしいこと――あれが、ほんの少しの間だが、今まで忘れられていたようなのが不思議なくらいです。あれをあれっきりで納めて見向きもすまい、思い出しもすまいとの全努力が、ようやくお雪ちゃんを、ここまでにしていたのが、あの燃え出した火と、それから煙が、お雪ちゃんの頭を、つむじ[#「つむじ」に傍点]のように旋回させてしまいました。
ああ、ああして石を置いて、せめて、犬や狼の凌辱《りょうじょく》から救って置きたい――イヤなおばさんの最後の肉体に対しての、自分の為し得た好意と親切の全力が、あれだけのものであった、あれより以上には、何をしてあげる力も無かったのだ。混乱の頭と、おのずから血走るような眼で、それを見詰めていたお雪ちゃんは、結局、あの地点はあそこに相違ない、そうして今、火をあんなに盛んに燃やしはじめたのは、わかりきっている、ほかへ運ぶことをしないで、あのままで薪《たきぎ》を積んで、イヤなおばさんの死体を焼きはじめたのだ。
ごらん! 人が集まって来ている、薪をたくさんに運んで足している、イヤなおばさんはああして焼かれている。白骨で、長いこと水の中へ漬けられていたイヤなおばさんの死体は、今は思う存分の薪を加えられて、焼かれている。
せめて、今度こそは、思いきり焼かれてしまって下さい、おばさん。
水にも、火にも、業《ごう》の尽きなかったおばさんの魂魄《こんぱく》、今度こそは、あの鳥辺
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