ス君を村民が焼き殺してしまおうという理由はほかにある。それは、マドロス君が毛唐であるからだ。
 毛唐というものは、つまり日本の国を取りに来るものだ。それだから、当代、二本差している憂国の志士はみな毛唐を斬りたがる。毛唐を一人でも斬れば斬るほど幅が利《き》く、まして毛唐に向って、戦《いくさ》をしかければしかけるほど、その大名の威勢があがる。
 相州の生麦《なまむぎ》というところで、薩摩の侍が毛唐を斬って、それから、薩州様と毛唐とが戦争をした。長州でも負けない気になって、下関で毛唐と戦《いくさ》をした。これらの大名連は、毛唐と戦をするだけの勇気があるが、将軍様にはそれが無い――と言って、多くの人たちが歯噛《はが》みをしている。
 だから、毛唐は殺すべきものだ。毛唐を殺せば殺すほど、侍としては勇者であり、国としては名誉である。そこで、この浦辺の漁民たちまでが、その気になっているのか。それでも、あたしには、それがわからないのですね。
 あたしがつきあっているマドロス君は、眼の色こそ変っている、言葉こそ違っているが、やっぱり日本人と同じことの人情を備えている。人情の長所も備えているし、短所も備えている。この人は、あんまりエライ人ではない、ドコの国にもある、あたりまえの労働者だ。酒を呑みたがるのも無理はないし、飲めばむやみに女が好きになるところなんぞも、毛唐だから特別という廉《かど》はない。日本人だって大抵そんなものではないか。
 毛唐は日本の国を取りに来た者だとは言うけれど、マドロス君一人では、日本の国が取れやしない、よし取ってみたって、一人じゃ背負《しょ》い切れまい。
 毛唐だからとて憎まねばならぬという理窟は、どうも茂太郎にはわからない。
 それならば、毛唐のうちのメリケン人は、黒人と見れば取捕《とっつか》まえて焼き殺すから、おれたちもメリケンを取捕まえて焼くのだ、というのも理窟にはならない。
 いったい、人間同士というものは、そんなに憎み合わないでもいいじゃないの。そんなにおたがいにこわがらないでもいいじゃないか。人間はどうも物を怖がり過ぎていけない。獣や、虫なんぞでも、こちらが害心さえ無ければ、向うも大抵お友達気取りで来るものを、人間が彼等を怖れ過ぎるから、彼等もまた人間を怖れ過ぎる。
 本来、この辺の浦人《うらびと》なんぞは、そんな惨酷なことをする人間ではなく、最初
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