に、この動物を、獰猛と、貪婪と、残忍の色にして見せたものでした。いかに、本来温良なる家畜動物も、飢えと放縦とに放し飼いをすれば、それは猛獣以上の猛悪を現わすことはあります。
それと同じことに、いかに温和なる人間も、非常の時には、そうして、人間の権威を他動物に向って示さねばならぬ時は、別人と見えるほどの勇気を、どこからか持ち来《きた》すものと見えて、苟《いやし》くも人間の死体の神聖を冒涜《ぼうとく》せんとする不良性動物の僭越と、兇暴とに対し、かよわいお雪ちゃんが、その全力を挙げて擁護の任に当らなければならない覚悟と、力とを与えられたことは、案外のものでした。
お雪ちゃんは、片腕にかかえていた薪《たきぎ》を振捨て、片手に持っていた杖に全力をこめて、僅かに棺の中へ首を突込んだ山犬に似た奴を思いきり打ちのめして、さすがに驚いてハネ返ったところを、手早く棺の蓋《ふた》を仕直して、しっかりと押え、そうして、早くもその手近にあった手頃の石――手頃の石といっても、ふだんのお雪ちゃんならば、ほとんど持ち上げることもむずかしかろうと思われるほどの大きさと、重さとあるのを両手にウンと持ちあげて、それを、いま蓋を仕直したところへ重しに、ドッカとのせてしまいました。
この間《かん》の働きは、お雪ちゃんとしては見られないほどの早業と、力量とを持っていましたが、それをするともう大丈夫と思ったのか、下へ投げ捨てた薪を、またも小腋《こわき》にかいこむと共に、走り出しました。
後をも見ずに走りました。
四十四
そうして、お雪ちゃんは、屋形船のところまで帰って来たのですが、その時は、もう口が利《き》けませんでした。
船べりにとりついて、はあはあと激しい息をついているのです。
もしこの時に別の事情がなかったならば、お雪ちゃんは一時、その場で昏倒してしまったかも知れません。また、もし船の中へ走り込む元気があったならば、いきなり、竜之助の膝にしがみついて、うらみつらみを並べたかも知れません。
そのいずれでもなかったのは、ちょうどこの際、船の向う側の一方で、久助さんの声を聞いたからです。しかもその久助さんが、何かその向うを通行の人と、かなり高声で会話をしていたのが、お雪ちゃんの耳に入ったものだから、この危急の際に、辛《から》くも踏みとどまって、多少の遠慮の心を起したのが、つ
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