羽織から揃えて一重ねも投げ出そうというのは、少し気前がよすぎてはいないかと、お雪ちゃんが、そこへ気を取られたものですから、いったん、起き直ったのを坐り直して、右の一重ねの衣類を手に取って、つくづくと見たものです――つくづくと見ているうちに、お雪ちゃんの唇の色が変りました。
「先生」
あわただしく、寝ている、竜之助を呼びかけたものです。
「何です」
「ああ、怖い、ちょっと起きて下さい、あなたに、見ていただかなければならないものがあります……といって、あなたはお見えになりますまいが、この重ねの小紋縮緬の着物をごらん下さい、これはまあ、あのイヤなおばさんの着物に違いありません。違いません、違いません、わたしがたしかに見た通りの品です、それが、ここに来ておりますよ。どうして、誰がこの着物を……」
着物が蛇にでもなったように投げ出しました。
四十
「お雪ちゃん、着物がどうしたというのだ」
「先生、これが驚かずにいられましょうか。昨夜、久助さんが、わたしの上へかけてくれたこの一重ねの着物、これは何だと思召《おぼしめ》す」
「何だか、わしが知っていようはずはあるまい」
「そうです、誰だって知っているはずはありません、このお召の一重ねは、これは、たしかに、あのイヤなおばさんの着ていた着物でございますよ」
「え」
「久助さん、どうして、どこからこんな物を持ち込んだのでしょう」
「知らない」
「廻《めぐ》り合わせにしても、あんまりじゃありませんか。いけません、先生、あなたが悪いのじゃありませんか」
「どうして」
「だって、昨晩、イヤなおばさんの魂魄《こんぱく》が、そっと外から忍んで来て、この船をゆすぶったなんておっしゃるものだから、それで、魂魄が、こんな着物をこの船へ持ち込んだんじゃないか知ら」
「ふふん、魂魄なんてものは、そんなに都合よく物を運べるものじゃあるまい」
「だって、そうとしか考えられませんわ。平湯へ来てからこっち、ほんとうに、あのイヤなおばさんにつき纏《まと》わされるようでたまりません――白骨から、わたしたちの後になり先になって、あのおばさんの魂魄がついているに違いありません」
「ほんとうにその着物が、あの淫乱後家の着物であったりしたら、全く不思議な廻《めぐ》り合わせだ、魂魄の引合せというよりほかはあるまい」
「それは間違いありません、先生にはお
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