っしゃいました」
「それがね、たしかにあの方とは思いますけれども、もしやと思って、何とも申し上げないで帰って来ました」
「それは、惜しいことをしました、何とか御挨拶《ごあいさつ》を申し上げてみればよかったのに」
「御挨拶なら、いつでもできると思いましてね、実はそのおさむらいさんが、お代官所の役人様たちと一緒に、お救い米やら、救助方やらに骨を折っていらっしゃるので、ずいぶんお忙がしいようでしたから、ほんとうに御親切に、わたしを見かけて、あちらではお気がつきませんのですが、ただの焼出され人だと思って、お米を下さる、着物を下さる、この乾物《ひもの》も持って行けと、こんなに恵んで下さいました。あんまりお忙がしいようでしたから、ツイその事も申し上げませんでしたが、なあに、ああしてお代官所にいらっしゃるのだから、いつでも御挨拶はできますが、それは私が申し上げるより、お雪さんが行ってお話しになると、いちばんわかりがいいと思いました」
「ほんとうにそれは珍しい。もしあの時の旅のおさむらいさんでしたら、よいところでお目にかかったもの、明日にもわたしがお訪ね申してみましょう」
「そうなさいまし」
お雪ちゃんは、あの夜のことを思い出しました。果して、それがあの時のさむらい、宇津木兵馬様であるやらないやらは懸念《けねん》のことだけれども、今日の場合では、他人の空似《そらに》であっても、心強い感じがする。
明日は北原さんへ手紙を書くことのほかに、もう一つ用事が出来た。それは、そのお方をおたずねしてみることだ。本当にあの若いおさむらいさんならば、北原さんよりもいっそ手近で、打明けて相談のできる人、ほんとに他人でない気持がする――今の先、いやなおばさんの記憶で悪くした気を、この久助の報告で、お雪ちゃんがすっかり取返しました。
こんなような、あわただしい混乱のうちに、夜になったから、この一晩を、また屋形船の中で明かすことになりました。
昨晩は、火事をよそにして、いくらも残らない夜明けを、あんなにして明かしてしまったが、今晩はもう一人、久助さんというものが来ていて、狭い船の中が賑《にぎ》やかです。
それでも、昨晩からの疲れが烈しいものですから、お雪ちゃんは、薄着のことも気にならず、たあいなく眠りに落ちてしまいました。久助さんもまた同様で、二人とは少し離れたところにゴロリと横になると、やはり
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