町の中に火が起ったのではござりますまいか」
と馬首をとどめて、兵馬が言いました。
なるほど火だ、火事としても小さからぬ火事だ。
二十八
イヤなおばさんの亡骸《なきがら》が、川西の旧宅へかつぎ込まれたその少し前つ方に、お雪ちゃんの一行は、ほとんどそことは目と鼻と言ってもよい、同じ宮川の岸の浅羽という宿屋に無事に到着しました。
白骨から平湯へ来ると、頓《とみ》に明るくなり、またこの高山まで来て見ると、全く人里へ出て来たような心持です。
他国にあってこそ、飛騨の高山といえば、山また山の奥の山里のように聞えますけれど、山から出て来れば、立派に一つの都会へ来た感じに打たれずにはおられません。
ここは昔の城下町として、今の代官の所在地として、長い間のこの国の行政の中心地を成しているだけに、すべて、それ相応の都会としての気分が、しっくり整っている。
もしお雪ちゃんが、一度京都あたりを見て来た人であるならば、この宮川のほとりへ来て、鴨川を思い起さずにはおられないはず、そうして周囲の光景がなんとなく、山城《やましろ》の王城の地を想わせて、詩人でなくとも、これにまず「小京都」といった風情《ふぜい》を感じ得られたかもしれません。
ただ、そんな比較を別にしても、久しく山谷の間にうずもれて来たお雪ちゃんは、ここへ来て、明媚《めいび》という感じに打たれて、思わず気分に多少の暢《の》びやかさを感じたのみならず、宿の自分たちの部屋が、ちょうど宮川にのぞんでいて、小さいながら行く水の面影に、人の世の情味を掬《きく》し、部屋も相当に綺麗《きれい》だし、風呂場も気持よく出来ている間に、やや陶然たる気味をよび起されました。
風呂から出て、日暮の宮川のもやを眺めながら、燈の明るい座敷で、夕餉《ゆうげ》の膳に向った時などは、お雪ちゃんの心も春のようになって、今のさきまで、ついて廻ったイヤなおばさんの思い出などは、この瞬間に、すっかり忘れてしまうことのできたのは何より幸いです。
まして、この近辺は花柳の巷《ちまた》でもあるのか知らん、お雪ちゃんがうっとりしている間に、三味線の音締《ねじめ》などが、小さな宮川の小波《さざなみ》を渡っておとずれようというものです。座敷も、幾間も明いていたものですから、竜之助だけは二階へ案内して置いて、自分は下に、その次の座敷には久助さん。
そうして、この夜は、落着いて、ぐっすりと休むことができました。
だが、お雪ちゃんに限らず、人というものは、生きている以上は、周囲が穏かならば、自分の心の中が動き出すし、自分の心がやっと落着いたかと見れば、何かまた周囲で煩わしいことが、大きかれ小さかれ、そのいずれかの翻蕩《ほんとう》の中に生きているようなものですから、せっかく、静かなお雪ちゃんの夢が、また夜中に破れ来《きた》ったということは、ぜひもないことかもしれません。
それはまず、犬の盛んに吠え出したことによって破れていると、次に夥《おびただ》しい人のわめき[#「わめき」に傍点]声が、つい目と鼻のところらしい人家の中から起り出して来たことで、
「何だろう、もう時刻も夜中を過ぎていようのに……」
お雪ちゃんが、寝床の中で、やや長いこと聞き耳を立てている間に、その人家の罵り声はいよいよ高くなり、全く只事ではないと思わせられました。
それのみか、今まで、家の中でばかり騒いでいると聞えたその声が、今は室外へ溢《あふ》れ出して来たものです。そうすると、ワッシ、ワッシと何か担いで来るような模様で、それも河原へ飛び出して、川を渡って、お雪ちゃんの泊っている、この座敷の直ぐ下のところあたりへ、押しかけてくるらしいから、何はともあれ、もう床の中で聞流しにしているわけにはゆきません。
「お祭のお神輿様か知ら、御祭礼があったようにもないが、おかしいねえ」
お雪ちゃんは、寝巻のまま立って、雨戸へ手をかけて無雑作に引きあけてみた途端に、
「あっ」
と言って、眼も口も打たれて、開くことのできなくなったのは、濛々《もうもう》として外から捲き込んだ烟《けむり》でした。
二十九
この辺で、名古屋で大持て[#「大持て」に傍点]のために有頂天《うちょうてん》になった頭の上へ、したたかに冷水をあびせられた道庵先生の近況にうつりましょう。
あの時の水かぶりで、危うく陸沈をまぬかれたが、先生の鼻息すこしも異状なく、宿へ帰ってつぎたしをして休みながら、宇治山田の米友のいないことなんぞも、一向お気がつかれませんでした。
先生は更に明日からの日程を、夢みながら……なお有頂天《うちょうてん》で、その得意さ加減、とどまるところを知りませんでしたが、こうして泰平楽《たいへいらく》に酔いきっている時、江戸で、その本城を衝《つ》かれて
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