だから、なおさら不思議のことはないのです。やかましく言った代官の方でも、貴公子の充分なる諒解があったから、黙認の形式を取ったものだろうと思われます。
広間の真中へ置かれた一つの新しい寝棺《ねかん》。その中には、当主であるべき例の淫乱の後家さん、白骨谷の通語でいえば、イヤなおばさんの亡骸《なきがら》が、白布に覆われて、いとも静かに置かれてある。
夜になるとその周囲に、幾台もの燭台が点《とも》っている。昼のように明るいと言いたいが、その光が湿っている。棺の後ろには阿弥陀如来の掛像があり、棺の前には、さまざまの供物《くもつ》がある、香炉がある。すべての調度は遺憾《いかん》なく整っているところに、ボツボツと集まった親類縁者というものが、それでも、いつのまにか、その広間に溢《あふ》れるほどの景気となったのは、何といっても、この土地きっての大家の余勢でしょう。おのおのが線香をあげたり、水をやったりする。
時としては、こういう席が、かえって賑やかになるもので、故人の徳をたたえてみたり、その邪気《つみ》のない失敗談をすっぱ抜いてみたり、また泣く泣くも、よい方を取るべき遺品《かたみ》分けの方へ眼が光ったりして、湿っているうちにも、かなりの人間味が漂うべきはずであるが、この席に限ってほとんどそれがないのです。
お義理だから集まっては来たけれども、いずれも、むっつりとした顔をして、特に何かの故人のしのびごと[#「しのびごと」に傍点]を言い出でようという者もなく、どうして発見して、誰がいつ持って来たかということを、念を押す者もなく、よく見つかったという者もなく、悪く持ち帰したという者もなく、全くお義理で、イヤイヤながら寄って来たという空気が充満して、全く白けきったお通夜の席が出来上りました。
こんな空気の中に、たった一人、目立ってハシャイでいるのは、新家《しんや》の徳兵衛といって、イヤなおばさんには甥《おい》か何かに当る、それでも、もう相当の年配で、三十七八というところ、女房も、子供も、充分に備わってしかるべき分家の主人であります。
この男が、万事をとりしきって、白けきった席の蝋燭《ろうそく》の心《しん》を切らしたり、湿っぽい席に笑いの種を蒔《ま》かせたり、ひとりで、座を取持とうとしている努力が見えます。その努力が報いられて、一座の連中とても無言の行《ぎょう》をするために集まっ
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