物を借りて読んでばかりいるが、もう書物も読みつくした、歌を詠んでも見せる人がない、碁を打ちたいと思うても、その相手すらないのじゃ。それで、わしは無聊《ぶりょう》に堪えられない、今日、ひとり馬をせめていると、下部《しもべ》の申すことには、昨日、これへ珍しい少年の剣客が見えたとのこと、なにほどのこともあるまいとは思うたが、来て見ると、全く、天晴《あっぱれ》なる手練、そなたというものを見つけたのは嬉しい。これから当分、剣術の相手、馬の遠乗り――もしやそちが、歌を詠むことを学びたいなら、わしが知れる限りは教えてもよい、囲碁、双六《すごろく》の相手もしてたも」
そう言って、委細かまわず、兵馬を自分の相手として任命してしまうところ、全く眼中に人はないのです。
左右の様子を見てみると、代官の役人共、この我儘《わがまま》貴公子の申し出でを、別段に抑止する模様もなく、むしろ、やんちゃ若様の子守役を、兵馬が引受けてくれれば有難いといったような気色《けしき》。それを見て、兵馬はいよいよ昨晩の「新お代官」のもてあましの難物というのに思い当りました。すっかり面食ってしまっている兵馬をとらえて、この貴公子は、
「さあ、わしが屋敷へ行こう。わしが屋敷といっても仮の宿じゃ、本当の家は京都の今出川《いまでがわ》にあるが、ここでわしのために定めてくれた家は、今まで空家《あきや》になっていた――この幽霊の出そうな空屋敷に、いわば座敷牢といったようなものに、わしはひとり納められて、出入りにも人がつき、身の廻りの世話は代官から、むくつけなのが交代で給仕に来てくれるのみじゃ。そなた、これからわしと一緒に、そのわび住居《ずまい》まで同道しや」
貴公子はこう言って、のっぴきならず、兵馬を拉《らっ》して、その自分が幽閉されているらしい屋敷へ連れ込もうというのです。
それは前に言う通り、それを預かる代官の家中も、かえって同意的に黙認しているらしいから、やがて兵馬はこの貴公子に引き立てられて、道場を立ち出でました。
「飛騨の高山には海が無い……その代り、思う存分駒に乗って、国内を飛ばせてみよう」
十八
曾《かつ》て、仮りに高村卿と呼ばれていた英気|溌剌《はつらつ》たる貴公子があって、多少の同志の者を連れて随所を横行し、江戸の三田の四国町の薩摩屋敷の中へ乗込んで、若干の兵を貸せ、その兵をも
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