助が廊下を渡って出てきました。それを見るとお雪ちゃんは、素直に柄杓《ひしゃく》を取って、竜之助の手に水をかけてやりました。
 その時に一番鶏が啼《な》きました。

         九

 かくて三日を過している間に、白骨から久助が、委細をとりまとめて、抜からぬ面《かお》でやって参りました。
 噂《うわさ》を聞くと、白骨に籠《こも》っているあの一種異様な人たちが、根っからこの冬を動こうともしないらしく、ことにまだお雪ちゃんとその連れである不思議な病者が、ここを去ったということをも気がつかないで、
「お雪ちゃん、またこのごろ雲隠れ、お嫁さんにでも行ったのか」
なんぞと噂をしているとのことです。久助はそれとなく、平湯から高山へ行って、また戻るようなそぶりで、なにげなく荷物をまとめて出て来たとのことです。
 お雪ちゃんは、久助が万事よくしてくれたことを表面は喜びましたが、内実は、また一当惑と思います。
 この久助さんを、ズッと白骨に残して置けるものならば残して置きたかったし、なおできるならば、国へ先に帰してしまいたいと思うけれども、それはどうしても、できないことだし、そんならばいっそ久助さんをもまき添えに、白川郷まで引張りこんでしまおうかしら。
 それはいけない、久助さんは国へ帰ることだとばっかり思っている、わたしたちが白川郷へ行こうなんぞという気持が、全く理解のできる人ではない。こうなった以上は、途中でまい[#「まい」に傍点]てしまうよりほかはないとも考えました。
 だが、ここで、私たちにまかれた後の久助さんはどうなるのだろう。そうでなくてさえ忠実すぎるほど忠実なあの人が、この遠国の旅路で、わたしたちをはぐらかしたとしたら、その心配と、狼狽《ろうばい》が思いやられる。ところが、いくら心配しても、狼狽しても、わたしの行方が絶望となった日には、あの人のしおれ方が思いやられるばかりでなく、おそらく、ひとりで無事に故郷へ帰る気にはなるまい。
 お雪はこのことの思案だけで、かなり頭が疲れ、旅の仕度も手につきませんでしたが、久助さんはいい気なもので、明日の出立の日和《ひより》を見たり、これから飛騨の高山から、美濃の岐阜へ出て東海道を下るか、そうでなければ木曾路へ出て、ゆるゆると故郷の上野原方面へ帰ることを、若い時、伊勢参りの思い出から、子供のように喜んで、お雪に語り聞かせているので
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