白かった人。
 しかも、ところは窮屈な鎧櫃の中ではなく、飛騨の国の平湯の温泉の一間、せんだって宇津木兵馬もこの室に宿り、仏頂寺、丸山の徒もここに来《きた》り、その時の鎧櫃、物の具の体《てい》、あの時と、ちっとも変らない一室の中でありました。
 夜具の中からこちらに寝返りを打った竜之助は、ぼんやりとした有明の燈の光に、自分の面を射させて、そうして、二つ並べた蒲団《ふとん》の一方に、夢にうなされているお雪を、こちらから呼んでみたところです。
「まあ、怖《こわ》かった」
 あたりを見廻したお雪は、狼狽と、不安との上に、茫漠とした安心の色を少し加えて、ホッと息をついたが、寝汗というもので、しとどと腋《わき》の下がうるおうていたのを快くは思いません。
「また、夢を見たね」
「夢なら夢でいいのですけれど、どうもこのごろは、夢と本当のこととがぼかされてしまって、つぎ目がハッキリしませんから、覚めても、やっぱり夢でよかったという気にはなれないから、いやになっちまいますね、まるで夢にからかわれているようなんですもの」
「夢がいいねえ、いつぞや、お雪ちゃんから聞かされた、白馬へ登った夢なんぞはよかったよ。拙者は今まで、ロクな夢という夢を見たことはないが、白馬へ登った夢だけは格別だ。あの時、あのままで、二人が白馬の上から白雲の上まで登って、永久に降りて来なければ、一層よかったろうに――あれから、また降りて来たばっかりに、畜生谷というところまで落されてしまうのか知らん」
「いやなことを、おっしゃいますな」
 お雪は、そこで、またちょっと不快な気持になっていると、その際に、ずっと以前から外で呼び続けられてはいたのだけれども、お雪ちゃんの耳に、はじめて入るけたたましい人の声を聞きました。
「駒さんよ――」
「聞えたかえ、もう一ぺん戻って下さいよう、聞えたかえ、駒さんよう」
「早く戻らさんせよう」
「早く帰らさんせよう」
 極めて単調の声で、野卑な哀音が夜をこめて、やや遠いところから、絶えず呼びつづけられていたらしいが、急に目ざめたお雪には、今となってはじめて聞えて来たものです。
「何でしょうね、先生、あの声は」
「あれはね、この近所の家で人が死んだのだそうだ、人が死ぬと、この土地の習いで、ああして三日三晩の間とか、その名を呼びつづけているのだということを、さいぜん、女中が来て話して行った、ぬけ
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