」
「何をおっしゃります、お嬢さん、それが、あなた方のお若いところです……あの白山へ登るよりは、この白水谷を下る方がずっと楽には楽なんですがね」
と言って老人は立ち上り、砂上に置き据えた鎧櫃《よろいびつ》に手をかけた時、お雪が急に、そわそわとして、
「おじいさん――まあ待って下さい、急に気がかりなことがありますから、その鎧櫃の中を、ちょっとでいいからわたしに見せて下さいな、今になって気がつくなんて、ほんとに、わたしはどうかしています」
六
お安い御用と言わぬばかりに、弥兵衛老人が鎧櫃の蓋《ふた》を取って見せると、井戸の底をでも深くのぞき込むように、お雪は傍へ寄って、
「わたしが頼んでおきましたのに、今まで忘れていました、さぞ、御窮屈なことでしたろうにねえ」
鎧櫃の中には、人の姿がありありと見えているのであります。
「先生、ずいぶん御窮屈でございましたでしょうねえ」
人の姿は見えているけれども、返事はありません。
「先生」
やはり手ごたえはない。
「おや!」
お雪は一方ならずあわて[#「あわて」に傍点]ました。
「先生、お休みでございますか」
でも、やっぱり何ともいらえがない。
「ほんとうに……眠っておいでなさるんでしょうか、先生」
お雪は狼狽《ろうばい》の上に、不安の心をうかべて、井戸側深くのぞき込むようにすると、人の姿はいよいよ、ありありと見えるけれども、一向にうけこたえのないことが、またいよいよ明瞭であります。
本来、鎧櫃の中というものは、一匹一人の人間を容れるには足りないものであります。せいぜい十代の少年ならばとにかく、普通の大人一人が、鎧櫃の中にいることは至難の業であります。ましてその中で酣睡《かんすい》を貪《むさぼ》るなどということは、あり得べきことではありません。
それだのに、ありありと見える中の人は、立派な一人の成人であって、それは身体骨柄《しんたいこつがら》痩《や》せてこそいるけれども、月代《さかやき》はのびてこそいるけれども、押しも押されもせぬ中年の男性が、身にはお雪と同じような白羽二重に、九曜の紋のついているのを着て、鎧櫃の一方の隅に背をもたせかけて、胡坐《あぐら》をくみ、そうして、蝋鞘《ろうざや》の長い刀を、肩から膝のところへ抱くようにかいこみ、小刀は腰にさしたままで、うつむき加減に目をつぶっているのであ
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