は最初のうちは英主が出たが、いけなくなったのは五代|継友《つぐとも》あたりからのこと。それは例の徳川八代将軍の継嗣問題《あとつぎもんだい》で、当然、入って将軍となるべく予想していた尾州家が、紀州の吉宗のためにしてやられ、それから自棄《やけ》となって、折助政治をやり出した、それがいけないということを、道庵は婉曲《えんきょく》に歴史を引いて論じてきました。
将軍職を紀州に取られてから、継友が自棄となり、放縦となり、幕府に対しての不満が、消極的に事毎に爆発し、ついに幕府は間者を侍妾として送り、継友を刺殺せしめたとの説がある――継友が夭死《わかじに》して、宗春の時になると、吉宗の勤倹政治に反抗するために、あらゆる華奢惰弱の風を奨励した時から、いよいよ精分が抜けてしまった。もう、そうなっては、英雄なんぞは出ろといったって、こんなところへ出て来やしねえ。出て来るものは、女郎屋と、酒場と、踊りと、お祭礼《まつり》と、夜遊びと、乱痴気だけのものだ。
まあそれでも、本家の徳川にまだ脈があったから、尾張だけが腑抜けになっても、亡びはしなかったがね――もうそれからは、ぬけ殻のようなものさ……
この辺まで道庵にたわごとを述べさせていた聴衆も、「ぬけ殻のようなものさ」と言われた時に憤然として、もう許せない、という色が現われました。
四十九
はじめは神妙に聴き、中頃少し調子が変だなと思いながら、お愛嬌に聞き流していたが、ようやく進むに従って、義理にも、我慢にも、許せない気色を、ここの聴衆が現わしたのは無理もないことです。
おや、酔ってらっしゃるんだな――と思って見たが、酔っているにしても、容易ならぬ暴言である。名古屋に人間無きかの如くコキ下ろすのはいいとしても、ここの城主、御三家の一なる御代々をとらえて、噛んで吐き出すようなる悪態が口をついて来たものだから、老巧なのが咳払いをしたぐらいでは追附かず、
「こいつは途方もない」
「馬鹿!」
「気狂《きちが》いだっせ――」
場内ようやく騒然として、掴《つか》みかかる勢いを為したものが現われ出したのは、それはまさに、そうあるべきことで、温厚なる医者と、学生を中心とした席であればこそ、ここまでこらえて来たようなものです。
道庵の暴言は、まことに容易のならぬものであるが、一方から言えば、司会者の責任でもあるのです。司会者
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