もないから、事の落着は存外単純にして、無事に済んだようです。
 そうして、これらの連中、大風の吹き去った後のように、いずれへか引揚げてしまってみると、ひとり取残されたようなお角さん、なんだか狐につままれたように思われないでもない。
 お銀様はまだ戻って来ない。
 迎えにやった庄公も梨の礫《つぶて》です。お角は、ようやく焦《じ》れったがりました。
 そうそうはお嬢様にかまっていられない、子供じゃあるまいし。それに今日は、名古屋で行きつき先がきまっているのだから、やがて庄公が、尋ね出してお連れ申して来るに相違ない、ままよ、これから一足先に名古屋へ伸《の》しちまえ、宿について、ゆっくり待ち構えていた方がいい、たまには、こっちが出し抜いてやるのも薬になる――といったような中ッ腹で、お角は、宮の鳥居前から、名古屋へ向けて、駕籠《かご》を飛ばさせることにきめてしまいました。
 一方――お角の見た眼前の光景は、あの通りすさまじいものでしたけれど、また存外、簡単に、型がついてしまったようなものですが、しかし、このホンの一場の活劇の新聞が、忽《たちま》ちにして、恐ろしい伝播力をもって、加速度に拡がって行ったことは、如何《いかん》ともすることができません。
 熱田の宮の前で、東西の相撲があげて大血闘を起している、死傷者無数、仲裁も、捕手も、手がつけられない、まるで一つの戦争である、なんでも尻押しは、海から軍艦で来た異国人であるそうだ、やがて熱田から名古屋が焼き払われる――この風聞が街道筋を矢のように飛びました。
 これは、あながち、根拠の無いことではありません。現に、あの鳥居|傍《わき》の袋叩きの乱闘を一見したものは、たしかに、それほど大きく吹聴すべき根拠はあったのです。それが輪に輪をかけたというだけのもの。
 町並、街道筋の驚愕と狼狽――ひとたび、浦賀へペルリが来てから以来、日本人の神経は過敏になり過ぎているようです。物の影に怖《お》じたがる癖がついている。影を自分から拡大して、そのまた拡大した影に、自分から酵母を加えて驚きたがる癖が出来たようです。
 熱田の宮前では、今や家財道具のおもなるものを持ち出すの騒ぎになっている。仏壇を背負い、犬猫を蹴飛ばすの混乱になってきました。おりから、このところへ通り合わせた車上に於ける宇治山田の米友と、その車力。
 車力と後押しはこの騒ぎを聞くと逸
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