「何が、へ、へ、へ、だい、大きなずうたいをしやがって、頓馬《とんま》だねえ」
お角さんが、啖呵《たんか》を切ってやりました。これはこの場合、お角さんとして少し癇が強過ぎたかも知れません。
そう好んで喧嘩を売りたがるお角さんではないのだが、この時は虫の居所が悪かったのです。
「何、何じゃ……わりゃ、頓馬だと言いおったな」
相撲取が、急に気色《きしょく》を変えました。
こいつは、あながち取的ともいえない、勉強さえすれば十両ぐらいにはなれそうな奴だが、田舎廻《いなかまわ》りのために慢心したのか、最初からキザな奴だ。
「言ったよ、頓馬と言ったのが悪かったのかえ、人の足を踏んで、御挨拶の一つもできぬ奴は、頓馬だろうじゃないか」
「わりゃ、天下の力士を知らんか?」
そこで、物争いに火がつきました。だが、この物争いは火花が散るまでには至りません。
それは、お角さんの気合いが角力取を呑んでしまったというよりは、天下の力士というものが、こうも多数に集まっていながら、一人の女を手込めにしたという風聞が立っては、外聞にはならないのみならず、人気にも障《さわ》るということに気がつかないわけにはゆかなかったからでしょう。
女というだけに、そこにどうしても優先権があるようです。しかし、また一方から言えば、天下の力士ともあるべきものが、女一人をもてあましたとあっては、外聞はとにかく、この場の引込みがつかないという事情もあるようです。
お角さんは、それをせせら笑いながら、手廻りのものを押片附けて、待たしてある駕籠屋《かごや》を呼ぼうとすると、この時、店の一方で遽《にわ》かに、すさまじい物争いが起りました。ほんの一瞬間の言葉|咎《どが》めから争いが突発したものらしく、さすがのお角さんさえ、度胆を抜かれて振返ったくらいです。
見ると、黒縮緬《くろちりめん》の羽織いかめしい、この相撲取の中でも群を抜いたかっぷく[#「かっぷく」に傍点]と貫禄に見えるのを、これも劣らぬ幕内力士らしい十数名が取りついて、遮二無二、これを茶店の外へ引きずり出そうとしているところです。
これは下っ端の争いではなく、いずれも幕の錚々《そうそう》たる関取連が、腕力沙汰を突発せしめたのだから、事の態《てい》が、尋常よりはずっと大人げなくも見え、殺気立っても見えます。抜群の関取は必死に争うけれども、衆寡《しゅうか》
前へ
次へ
全82ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング