風が烈しくなって、とうとうその尼さんの行方《ゆくえ》がわからなくなりました」
「え、それでは、あの滝の下あたりに、やはり眼によい温泉があるのですか」
「ありますとも、白山三湯《はくさんさんとう》と言いまして、そのうちにも楢本《ならもと》の湯というのは、眼病、そこひ[#「そこひ」に傍点]のたぐいには神様のようだそうです」
「そのお湯へも、女は行ってはいけないのですか」
「え、あれから先は只今申し上げた通りです、行って行けないことはございませんが、行けば必ず祟《たた》りがあると言われていますから、おいでにならない方がよろしうございましょう」
「お爺さん、わたしは、どうも、そういうことは嘘だと思います――男だって、女だって、同じ人間ではありませんか、女は罪が多いと言いますけれども、男にだって罪の少ない者ばかりはありません、たまに女が災難に逢うと眼に立ち易《やす》いから、それ見ろと笑いものにしますけれど、男だって盗賊に逢って、林の中で斬られた人も幾人もありましょう、雨風のために行方知れずになったものも、ずいぶんありましょうと思います。ですから、わたしは、行って行けないことはないと思いますが、それはそれとして、お爺さん、いやな名前ですけれども、この白川郷のうちに、畜生谷というところがあるそうですね」
 そう言った時に、老人の面《かお》に、何とも言えぬようないや[#「いや」に傍点]な色が現われたので、お雪ちゃんがハッとしました。

         五

 その何とも言えない、いや[#「いや」に傍点]な色を見て、お雪ちゃんは急に、言わでものことを言ってしまったと、自分ながら気の毒と、それから一種の羞恥心《しゅうちしん》というようなものに駆《か》られ、我知らず面を赧《あか》らめて、だまってしまいました。
 畜生谷と言われて、何とも名状し難い嫌な色を、面に現わした老人は、暫くうつむいていましたが、
「人は、いろんなことを言いますねえ。それは、広い世界とはかけ離れたこの谷々の間のことですから、風俗も、それぞれ変ったことがございましょうよ」
「でも、畜生谷なんて、いやな名前ですねえ、ほんとに」
と、お雪は慰めのような気分で、老人に向って言いかけたことほど、老人の不快な色を気の毒に思ったからです。気の毒に思ったといううちには、もしかして、この老人が、その世間の人の悪口に言われる畜生谷の部
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