した」
「香具師に売る……」
と言って、そのまるい目を異様にかがやかせたものです。

         三十六

「ま、ま、ま、待ちねえ」
 それを聞くと米友が、まるい目を異様に輝かせた後、その口を烈しくどもらせて、
「ちっと、待ってくれよ」
 人々は、この異様な小冠者と挙動に、やや驚かされはじめました。それを米友が畳みかけて、
「待ってくんなよ、お前さんたち、この熊の子を香具師《やし》に売るんだって、香具師に売るんなら売るんでいいけれども、そうなると、この親熊の皮はどうなるんだ」
「ええ、皮の方は売りませんのでございますよ」
「そいつは無理だな」
 米友が、やや詠嘆的に言いました。人々は熊の子を檻に押し込むことに夢中で、米友の言うことに多く取合っている余裕がありませんでした。
「そいつは、ちっと無理だよ、どうしても売らなくってならねえんなら、皮も附けてやんな」
 更に米友が、勧告とも、要求ともつかない口出しを試みたけれど、挨拶がない。
「あれほど欲しがるんだから、皮もつけてやんな」
 三たび米友が勧告しましたけれど、やっぱり誰も取合いません。そのうちに、ようやくのことで、ともかくも、大男が大勢かかって、一頭の子熊を、車上の檻の中に押し込んでしまって、ホッと息をついているところです。
 子熊は檻の中にころがし込まれながら、悲鳴をあげて、親皮の方をながめながら、足をバタバタしているのに頓着なく、店の者共は、
「いや、どうも御苦労さまでした、それではまあ親方へよろしく」
「どうもはや、御苦労さまでした」
 車力がそのまま車の棒を取上げる。檻の中へ入れられた子熊は輾転《てんてん》として、烈しく悲鳴を立てました。その時ずかずかと走《は》せ寄った米友は、大八車の桟《さん》を後ろから引っぱって、
「まあ、待ってくんな、どうも罪だよ、見ていられねえよ」
と言いました。
「へ、へ、へ」
 何ということなしに、一同がテレて、面《かお》を見合わせていると、米友は、
「どうも見ていられねえよ、子が親の遺身《かたみ》を恋しがるというのは人情だからなあ」
と言いました。この場合、人情というのは少しおかしい、正しくは熊情というべきでしょうが、それを訂正している余裕が米友になく、また集まっている人たちも、米友の権幕が意外に真剣なものだから、その言葉ちがいを笑っている暇がありませんでした。そこで米
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