ずはない。犬でなく、猫でなく、鼠でないとすれば、どうしても、これだけの大きさを持ったものは、野獣のうちのいずれかに属しているものでなければならないと、その瞬間に感づいたものですから、米友は、
「こん畜生」
例によって杖槍は、いつでも自由自在に変化の利《き》く伏せ方にしておいて、ちょっと小首をたてて、睡眼に、その動物を篤《とく》と見定めようとしたものです。
だが、この際、まだ十分に使用に堪えない睡眼を酷使して、薄ぼんやりした有明の行燈《あんどん》の光で、強《し》いて、その闖入の動物のなにものであるかを見定める労力と、必要とが、無用に帰したのは、件《くだん》の動物が、逸早《いちはや》く米友の腋《わき》の下へ首を突込んで来たからです。
「こん畜生」
と言って米友は、その鼻っぱしを左の手で、かっ飛ばそうとして、はじめてその動物の鼻っぱしの強いことに、一驚を喫しました。
大抵の動物ならば、よし無雑作《むぞうさ》にとはいえ、米友が「こん畜生」といって刎《は》ね飛ばせば、一応は、相当の距離へケシ飛ばされて、それで、怖れて逃げるか、もう一ぺん狎《な》れて近づいて来るかの手ごたえがなければならないのに、この動物は更に動じないから、米友が、ちょっと面喰った形です。同時に、
「あ、こいつぁ熊だ!」
と米友が叫びました。
なるほど、そう言われて見ると、熊に違いありません。但し、熊は熊だが、羆《ひぐま》や月の輪ではなく、まんまるく肥った熊の子であります。子熊ではあるけれども、熊は熊に違いないのです。家畜でなくて野獣のうちです。野獣のうちの猛獣に属するものです。しかも、猛獣のうちでも、獅子と虎とを有せざる日本の国に於ては、最強最大の猛獣といってよい種類に属しているものでありました。
「熊の野郎!」
米友は眼を円くしたけれども、むくむくと肥え太ったこの猛獣の子供を見ると、恐怖よりは可愛らしさの念に打たれないわけにはゆきません。月の輪や、羆の類が襲い来《きた》ったとしたならば、心得たりと、体をかわし、咄嗟《とっさ》には杖槍を七三に構えて、「さあ、かかってみやがれ」と、胆を据えるべき米友も、こんな可愛らしい部類に属する子熊に、じゃれつかれてみると、一応は、びっくりしたが、これを憎み扱う気にはなれません。
ましてや、この肥え太った動物は、米友の寝ている腋《わき》の下へくぐり込んで、鼻を鳴ら
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