坐り込んでいるのは、この界隈《かいわい》のお河童や、がっそう[#「がっそう」に傍点]や、総角《あげまき》や、かぶろや、涎《よだれ》くりであって、少々遠慮をして、蓆の周囲に立ちながら相好《そうごう》をくずしているのは皆、それらの秀才と淑女の父兄保護者連なのであります。
 さて席の正面を見ると、そこに臨時の祭壇が設けられてある。その祭壇に使用された祭具を見ると、八脚の新しい斎机《さいき》もあり、経机の塗りの剥《は》げたのもあり、御幣立《ごへいたて》が備えられてあるかと見れば、香炉がくすぶっている。田物《たなつもの》、畑物《はたつもの》を供えた器《うつわ》も、神仏混淆《しんぶつこんこう》のチグハグなもので、あたり近所から、借り集めて人寄せに間に合わせるという気分が、豊かに漂うのであります。
 それよりも大切なことは、祭壇があれば、祭主がなければならないことですが、御安心なさい、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》でいちいの笏《しゃく》を手に取り持った祭主殿が、最初から、あちら向きにひとり坐って神妙に控えてござる――さてまた祭主と祭壇の周囲には当然、それに介添《かいぞえ》、その世話人といったようなものもなければならぬ。それも心配するがものはない。
 村方の古老、新老が都合五名、いずれも平和なほほえみを漂わして、祭主の周囲に、くすぐったそうに坐ってござる。のみならず、形ばかりの袈裟衣《けさごろも》をつけた坊さんが一枚、特志を以てその介添に加わって、何かと世話をやいてござる。
 さて、烏帽子直垂の祭主のみは、恭《うやうや》しく笏を構えて、祭壇に向って黙祷を凝《こ》らしているが、祭壇の彼方《かなた》には、神も、仏も、その祠《ほこら》も、社もおわしまさない。ただ一むら、真竹《まだけ》の竹藪《たけやぶ》があるばかりだ。
 何のことはない、祭主はこの竹藪に向って、供物《くもつ》を捧げ、黙祷を捧げているようなものです。
 列席の秀才や、淑女は、鼻汁をすすりながら、神妙に席をくずさず構えているのは、多分、この祭礼と供養が済みさえすれば、あの捧げものの田《たな》つ物と、畑《はた》つ物と、かぐの木の実とは、公平に分配してもらえるか、或いは自由競争で取るに任せるか、その未来の希望を胸に描いて、それを楽しみにおとなしくしているものらしい。
 ところで、道庵先生は、どうした。さいぜんあれほど人間味を発揮
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