圧して、海と持合いに、この平野がのびているという感じは豊かである。
 見渡す限りは、その大河の余流を受けた水田で、水田の間に村があり、森があり、林があり、道路があって、とりとめのない幅の広い感じを与えないでもない。
 米友が件《くだん》の田疇《でんちゅう》の間を、木柱をかつぎながら、うろついて行くと、楊柳の多いところへ来て、道がハッタと途切れて水になる。
 大抵の場合は、それを苦もなく飛び越えて、向う岸に移るが、これは足場が悪い。距離に於ては、躍《おど》って越えるに難無きところでも、辷《すべ》りがけんのんだと思う時は、彼は気を練らして充分な後もどりをする。
 葭《よし》と、蘆《あし》とが行手を遮《さえぎ》る。ちっと方角に迷うた時は、蘆荻《ろてき》の透間《すきま》をさがして、爪立って、そこから前路を見る。出発点は知らないが、到着点の目じるしは、田疇の中の一むらの森の、その森の中でも、群を抜いて高い銀杏《ぎんなん》の樹であるらしい。
 こんなふうに、慣れない田圃道《たんぼみち》を、忍耐と、目測と、迂廻《うかい》とを以て進むものですから、見たところでは、眼と鼻の距離しかないあの森の、銀杏の目じるしまで至りつくには、予想外の時間を費しているものらしい。
 そこでいくら気を練らしても、持って生れた短気の生れつきは、如何《いかん》ともし難いものと見える。
 いったい、正直者はたいてい短気です。短気の者がすべて正直といえるかどうかは知らないが、宇治山田の米友に限って、正直であるが故《ゆえ》に短気だという論理は、彼を知れる限りの者が認めるに相違ない。正直者は、この世に於て、距離と歩数とは常に比例するものだと考えている。距離と歩数とが最も人を欺《あざむ》き易《やす》いのは、山岳と平野とがことに烈しいことを知らない。山岳の遭難者が、ホンの目に見えるところで失敗するように、見通しの利《き》く平野の道に、大きな陥没と曲折があることを、熟練な旅行者は知っている。
 そこで、この世の苦労に徹骨した大人は教えていう、九十里に半ばすと。
 わが宇治山田の米友も、このごろでは、かなり人情の紆余曲折《うよきょくせつ》にも慣れているから、距離と、歩数と、時間との翻弄《ほんろう》にも、かなりの忍耐を以て、ようやくめざすところの森蔭に来た時分には、黄昏《たそがれ》の色が予想よりは一層濃くなっていたことも是非
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