ず、声色《せいしょく》を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔《かいぎゃく》とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜《へんちゅつ》せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易《えやす》からざる人傑であります。
 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反《そむ》くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。
 長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺《みなごろ》しだ! と戦慄《せんりつ》したというのも嘘ではあるまい。
 かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、甚《はなは》だノホホンです。
 小栗の立てた策
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