なくなって、
「叱ッ、叱ッ」
 しかしながら、もう駄目です。この時、後ろなる或る物から、完全に追いつかれてしまっていました。

 追いつかれたものを見れば、なんの人騒がせな、暗闇《くらやみ》から牛の本文通り、これはチュガ公でありました。
 チュガ公の後を慕って来るのを、或いは疾走によって、或いは威嚇によって追い返そうとしたが、ついにその効なきことを知ると、やがて妥協が成り立ちました。
 その辻堂を出立する時、チュガ公の背には一枚の古ゴザが敷かれて、その上に跨《また》がる蓑笠《みのかさ》の茂太郎――こうなるとチュガ公は、茂太郎のために、伝送の役をつとめんとして来たようなものです。
 雨の夜道も、苦にはなりません。
 夜が明けると、その雨さえも霽《は》れてしまいました。山道は全く尽きて野路になっている。後ろからのぼる朝日を背に受けて、秋の野路を西南の方に向いて行くチュガ公の足は、遅いもののたとえになる牛の足のようではなく、茂太郎を乗せたことによって、こおどりして進むものですから、道のはかどること。
 茂太郎もいい心持になると、また例の出鱈目《でたらめ》が出ないではやみません。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
そらそら
そちらを行っては
あぜ道へ落っこちる
こちらをあゆびなよ
あれあちらの
赤い花の咲いている
お寺の前を通りなよ
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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 チュガ公は、その赤い花の咲いているお寺の前を歩むと、
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あさっから
しっかりぬきい
てらんぬわ
またがいどもが
おだされにくる
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 房州人だけが知っている歌。それを茂太郎が寺の前でうたうと、寺から餓鬼共《がきども》が二三人、首を出して、やあい、やあい、牛小僧やあい、とはやし立てる。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
静かにあゆびなよ
そんなに急《せ》かずとも
おくれはしないよ
もうあとが二里だよ
近路《ちかみち》をせずと
館山大路《たてやまおおじ》を
真直ぐにあゆびなよ
そらそら
あちらから
村の小旦那《こだんな》が来る
よけて通しなよ
村の小旦那が来る
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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 村の小旦那が、めかしこんで通りかかるのと、すれちがいになった時、茂太郎は、
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小旦那どんが
どこへ出るにも
羽織きて
那古北条《なこほうじょう》は
いいとうりだのんし
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 これは他国者でも少しはわかる歌。茂太郎から歌われて、小旦那なるものは、悪い面《かお》もせず、にっこと笑《え》む。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
そらそら
そちらを行っては
海へ落っこちる
もう少し
こちらをあゆびな
竜燈の松が見えるよ
洲崎《すのさき》は近いよ
お嬢さんが待っている
金椎君《キンツイくん》も待っている
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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         十二

 かくて、まだ朝といわるべき時間のうちに、早くも洲崎《すのさき》の、駒井の陣屋まで帰って来てしまいました。
「御苦労だったね」
 このごろ、新築された厩《うまや》の前へ来て、茂太郎が牛から下りる。
 厩には馬がいない。いないはず、これは駒井と田山とが、轡《くつわ》を並べて出て行ってしまったあとだから――
 牛から下りた茂太郎は、牛の労をねぎらって、これに、かいば[#「かいば」に傍点]を与え、水を与え、雨に濡れた身体をぬぐうてやり、
「御苦労、御苦労、もういいからお帰り」
 たてがみのあたりを撫でて軽く押してやると、チュガ公は無雑作《むぞうさ》に動き出して、可愛ゆい眼をパチクリする。
「番兵さんが心配するから、早くお帰り」
「さよなら」
 チュガ公は、言われたままに、とっとともと来た方へ走り出す。
「道草を食べないでおいでよ」
 チュガ公は振返って、眼をパチクリする。
「はいはい、承知致しました」
 とっとと走り出す。珍客を送るために出て来て、使命を全《まっと》うしたことの喜びを以て、いそいそとして帰る。
 行くも、帰るも、チュガはチュガだ。
 この分では、六里の道を無事に帰って、番兵さんに、ただいま送って参りました、との挨拶をするに違いない。
 チュガ公を帰してやった茂太郎は、足を洗い、濡れた着物をぬいで、台所の隅へ行き、乾いたのと着替えてから、こっそりと、おまんまを食べてしまいました。
 ずいぶん、お腹《なか》がすいていたものと見える。
 おまんまを食べているうちにも、主人が不在とはいえ、この家の森閑《しんかん》たることよ。
 金椎は庖厨《ほうちゅう》を司《つかさど》っているが、それはいてもいなくても、物の音
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