でかいていなさるんじゃない、芸術のためなんでしょう」
「生意気をお言い。何にしたって、こんな恥かしいところをかかれちゃいや」
兵部の娘は手をさしのべて、筆立から筆を抜き取り、墨を含ませると、ズブリとその絵を塗りつぶしてしまったから、清澄の茂太郎が、その勇敢に、あっ! とたまげました。
「茂ちゃん、お前のことも、ずいぶんかいてありますよ」
「わたしは、かかれたってかまわない」
「それから、駒井の殿様も、金椎《キンツイ》さんも、マドロスさんも、みんないいかげんのところがかきうつしてしまってあるのよ、ほんとに絵かきの先生に逢っちゃ、たまらないと思うわ」
「商売なんだもの」
「こっちの方をごらん、造船所から、竜燈の松の方まで、風景がすっかり写し取ってあるのよ」
「商売だもの」
「いくら商売だってお前、こんなに、一から十までかいておいて、知らん顔をしているのは憎いわねえ……およしよ、茂ちゃん、うるさいわよう」
茂太郎が、あんまり摺寄《すりよ》って来て、肩から首筋へかけた手を十分に深くして、下に置いてある絵をのぞき込むものだから、兵部の娘は、負うた子に髪をなぶらるるようにうるさがって、首を振るのを、茂太郎はいっこう遠慮をしないで、
「それはお嬢さん、殿様だって、あんな立派なお船をこしらえながら、知らん顔をしていらっしゃるじゃないの、何でも、仕事をする人はだま[#「だま」に傍点]ってしてしまいますよ」
「ませたことをお言いでないよ。ホントに、茂ちゃん、お前という子は、このごろイヤにませ[#「ませ」に傍点]てきてしまって、始末にいけないよ。お放しってば、痛いから」
「このくらいのこと、痛いもんですか」
「痛いか痛くないか、人のことがわかって……そんならお前、こうしても痛くないかえ」
「痛い!」
茂太郎は横腹をツネられて、痛い! と叫んだけれども、それでも首に捲いている手は、ちっとも放さず、
「お嬢さん、そんな邪慳《じゃけん》なことをするもんじゃありませんよ」
「何が邪慳です、甘たれ小僧」
「そんなに叱れば、あたい、また出て行ってしまってやるから」
「どこへでも、出ておいで」
「今度、出て行けば帰らないよ」
「勝手におし」
「いいの?」
「いいとも」
「あたいが帰らなくても?」
「あいさ」
「ああそうでしょう、あたしがいなくても、殿様がいらっしゃるからね」
「まあ……」
兵部の娘は、ちょっと横を向いて睨《にら》む真似《まね》をしながら、
「なんてこま[#「こま」に傍点]しゃくれたことを言うんでしょう、お前の言うこととは思えない」
「だって、お嬢様は、以前は一晩でも、あたいがいなければ淋しがったり、恋しがったりしていたくせに」
「まあ、いいからお放し……ね、いい子だから、あんまり、しつっこ[#「しつっこ」に傍点]いと人に嫌われますよ」
「ねえ、お嬢さん、あっちへ行きましょうよ」
「どこへさ」
「あっちへ」
「あっちとはどこさ。まあ、この絵をみんな見てやりましょうよ、知らん顔をして、こんなにかき散らしているのが、ホントに憎らしいから」
「あたいは絵なんか見たくない、それに留守の時に、人の物をだまって見るなんて、悪いから」
「だって、お前、向うだって、だまって人の姿をうつしたりなんかして、知らん顔をしているんだもの……おたがいさまよ」
「行きましょうよ、あっちへ」
「どこ[#「どこ」に傍点]だっていいじゃないの」
「でも、居慣れたところの方がいいでしょう」
「やんちゃな子だねえ……」
その時、窓の下の海岸を、人が走り出して、
「鯨だ、鯨だ、鯨が来たよ!」
室内の二人は、この声におどかされてしまいました。
十三
この近海へ、鯨が見えたということは珍しい報告である。珍しければこそ、人があんなに騒いだのだろうと思われる。
二人もまた、この物置から走り出して、海辺へ出て見ると、鯨だ、鯨だと言ったのは多分、「黒船《くろふね》だ、黒船だ」と叫んだその聞きそこねか、そうでなければ、早まった人たちの間違いだろうと、一目でそうわかりました。眼の前に、一艘《いっそう》の大きな黒船が来ている。
眼の前といっても、それは海上かなりの遠くではあるが、ここからは眼と鼻の先、浦賀海峡の真中に、三本マストの堂々たる黒船が、黒煙を吐いたままで錨《いかり》を卸している。それを見て最初叫んだものが、「黒船、黒船!」と言ったのを、寝耳に水のように聞いた漁夫《りょうし》たちが、「鯨だ、鯨だ!」と間違えたのだろう。
黒船と聞いて、人心が動揺しないわけにはゆきません――鯨ならば、七浦《ななうら》をうるおすということもあるが、黒船では、当時の日本国を震愕《しんがく》させるだけの価値はある。
尤《もっと》も、この辺の地点では、黒船を見ることにかなり慣らされ
前へ
次へ
全32ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング