ぜん》として、暫く口をあけていましたが、
「オットセイは来ないよ、オットセイの来べきところでもなかりそうだ」
「そんならいいが番兵さん、もしオットセイが来たら、殺さないようにして帰しておやり、子供がかわいそうだから」
番兵さんは、茂太郎の申し出を奇怪なりと感じないわけにはゆきません。
この際、特にオットセイを持ち出して来るのが意外なのに、そのオットセイに親類でもあるかの如く、懇《ねんご》ろに、その訪れた時の待遇を頼むのがオカしいと感じないわけにはゆきません。しかし、オットセイなるものに就《つい》ては、この番兵さんも、名前こそ聞いているが、その知識はあんまり深くないものだから、
「鹿の子でも、オットセイでも、来れば大切《だいじ》にしてやるが――茂坊、オットセイは魚だろう、山にいるものじゃなかろう、北の方の海にいるお魚のことだろう、だからオットセイが、牧場へ逃げて来るなんてことは、有り得べからざることだよ」
「いいえ、違います」
茂太郎は、オットセイの知識については、何か相当の権威を持っていると見えて、首を左右に振って、番兵さんの言葉をうけがわず、
「違いますよ、オットセイはお魚じゃありません、獣《けもの》ですからね」
「そうか知ら」
オットセイについて、茂太郎よりも知識の薄弱らしい番兵さんは、勢い、茂太郎のいうところに追従しないわけにはゆきません。事実、オットセイは海にいるということは聞いているが、それが魚類であるか、獣類であるかを、決定的に回答のできるほどの知識を持っていないからです。
やや得意になった茂太郎は、
「海にいたって、オットセイは魚じゃないんだ。鯨だってお前、番兵さん、鯨だってありゃお魚じゃないんだよ、山にすむ獣と同じ種類の動物なんですから」
「え……」
番兵さんが眼をまるくして、今度はうけがいませんでした。
「御冗談《ごじょうだん》でしょう……鯨が魚でないなんて、木曾の山の中で、鯨がつかまったなんて話がありますか」
オットセイについては、自分の知識の不明な点から、圧倒的に茂太郎の言い分に追従せしめられた形でしたが、鯨が魚でないなんぞと言い出された時に、番兵さんがうけがいません。のみならず冷笑気分になって、
「熊の浦で、鯨の捕れたなんて話はあるが、木曾の山の中に、鯨が泳いでいたなんという話は聞かねえ」
木曾の山を二度まで引合いに出しました
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