すりついて来たその懐《なつ》っこさといったらありません。
物と物との間には、どうしても、身も魂も入れ上げて好きになれるものもあれば、虫唾《むしず》の走るほど嫌われながら、それでもついて廻らねばならぬ運命もある。
清澄の茂太郎が、物に好かれる性質を、先天的に、極めて多量に持ち合わせて生れたことは申すまでもありません。ただそれを多量に持ち過ぎていることが、彼を苦しめたこと幾度か知れません。
都会にあって、見世物に出されて、人気を占めていた時は、多くの婦人が、貴婦人といわるべきものまでが、彼の身《からだ》にこすりつくことを好んでいなかったか――あらゆる動物が彼を慕うて来る、毒蛇でさえも、狼でさえも――いわんや動物のうちの最も順良なる牛が、こうして、なついて来るのは、茂太郎にとっては少しも不思議なことではありませんでしたけれども、そのなつかしがりようが、あまりに濃厚なものですから、
「おや、お前はチュガ公じゃないか、ああ、チュガ公だね、チュガ公……」
茂太郎に驚喜の色があります。
九
チュガ公と呼ばれて仔牛は、前足をトントンと二つばかり鳴らし、クフンクフンと甘えるような息づかいをする。
「ああ、ほんとうにチュガ公だ。お前、久しく逢わなかったね、お父さんも、お母さんも達者かい」
そう聞かれて牛は、またクフンクフンと鼻を鳴らし、涎《よだれ》を垂らしはじめました。
「お父さんも、お母さんも達者だろう、なぜ、お前、今時分、ひとりで、こんなところへ来たの、みんなが心配するだろう、お父さんやお母さんも心配するだろう、牧場の番兵さんも心配するよ――ひとり歩きをするものじゃない」
茂太郎は、この場合、仔牛に向って大人びた意見を試みたが、父母|在《いま》す時は遠く遊ばず、という観念を、仔牛に向って吹き込もうとして、かえってくすぐったく思いました。それは他に向って言うことではない、自己に対して責めることなのだ。
父母|在《いま》しても、いまさなくても、幼き身で無断に遠く遊んで悪いことは、昨今の自分の身がかえって殷鑑《いんかん》だと思いました。
駒井甚三郎も、田山白雲も、マドロス君も出て行ったあとの洲崎《すのさき》の陣屋から、いい気になって出て来た自分は、興に乗じてこんなところまで上って来てしまった。
ここを房総第一の高山だと思って上って来たわけではない
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